回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

ヘリコプター墜落の記事を読んで

2016年04月30日 09時27分45秒 | 日記

これまで出張や旅行などで月に平均2回程度は飛行機に乗っていると思うが、ヘリコプターに乗ったのは20年ほど前、北海にあるノルウエーの石油会社の海上掘削リグを見学したときのことだ。飛行機とは異なり頭上にプロペラを回転させるための猛烈なエンジン音、そのために乗客(?)は全員ヘッドフォンを装着する。離陸となると、一瞬後ろに引き戻され、そのまま前のめりになってから前に向かって進みだした。

ベルゲンというノルウエー西岸にある古くからの港町のヘリポートから小一時間、見事なフィヨルドを見ながら風の強い北海にポツンと浮かぶリグまで飛行した。おぼろげな記憶だが、ノルウエーの神話に出てくるトロルの名を冠した作業所だったと思う。ヘリコプターから見下ろすとリグのてっぺんに心細いくらい小さなヘリポートが。数日前にヘリコプターが着陸に失敗して海中に転落したという話を聞いていたので不安が募ったが、どうにか無事着陸。その後階段だらけの大きな工場のような掘削リグをひとわたり見物した。ここの作業員は3か月交代、この間、禁煙(当然火気厳禁)、禁酒(作業員同士のトラブル回避)なので相当なストレスを感じるのだろうと思われた。厳しい職場環境であるがそれだけに待遇(給料)は破格。陸に戻れる日を指折り数えているような感じがひしひしと伝わってきた。たったの数時間のことなのに、同じ航路で陸上に戻った時にはほっとしたのだから、その時の経験がいかに非日常的なものだったかということだ。

 今日、AFP日本語版の記事にノルウエイでヘリコプターが海上に墜落したと。状況から推察すると自分が乗ったヘリコプターと同じもののようだ。まだこの時期は北海の気候は厳しいのだろう。単に他人事とは思えず、ふた昔前のことを思い出してしまった。こうしていまでも命を懸けて働いている人がいる。

 http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%83%8e%e3%83%ab%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%83%bc%e6%b2%96%e3%81%a7%e3%83%98%e3%83%aa%e5%a2%9c%e8%90%bd%e3%80%81%e6%b2%b9%e7%94%b0%e4%bd%9c%e6%a5%ad%e5%93%a1%e3%82%8913%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1-%e6%95%91%e9%9b%a3%e5%bd%93%e5%b1%80/ar-BBsrsmZ#page=2

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スウェーデンからの手紙

2016年04月09日 17時53分10秒 | 日記

仕事の上で知り合う膨大な人のなかで何人かは生涯の友となる。そんな一人が1990年代初頭、ロンドンで知り合ったスウェーデンの銀行家、RS氏だった。折しもフィンランド、ノルウエイ、スウェーデンといった北欧の銀行が経営危機に陥り、こちらとしてはどのように取引を行ってよいものか、情報収集に駆け回っていた頃だ。当時、スウェーデンの銀行のロンドン代表をしていたRS氏は、スウェーデン人にしては珍しく気さくで偉ぶらない、また、エキセントリックではない銀行家で、初めから好印象をもてた。幸い、同氏もこちらを信頼してくれて、常に最新の詳細な情報を提供してくれた。その後、日本の銀行が不良債権で危機に陥った90年代後半、RS氏はスウェーデンの銀行の東京代表として着任、今度は攻守ところをかえての付き合いとなった。RS氏が外国の日本支社代表として長く駐在したことから、最後には外国銀行団の代表として日本の金融当局との窓口ともなる重責を務めた。日本での勤務を終えてスウェーデンに帰国その後は顧問として一線からは退いていたが、毎年、クリスマスカードのやり取りが続き、2013年末にはシドニーで夫人と仲睦まじくクルーズ旅行を楽しんでいる写真が同封されていた。2015年には、いつも通り夫婦宛にこちらから送ったクリスマスカードに返事がなかったが、たぶん旅行ででも忙しいのかとあまり気にもしていなかった。

それが今日、スウェーデンから思いもしない手紙。それはRS氏の3人の子供の連名による、母親(RS氏夫人)が闘病の末1月20日逝去したとの連絡だった。もし夫人が亡くなったのなら、なぜ、RS氏の名前がないのだろうかと不思議だった。考えられることはRS氏も連絡できないような状況にあるということだ。

手掛かりを求めてRS氏の名前でインターネットを検索したら、今年3月22日、ストックホルムで開催された日本銀行副総裁の講演会がでてきた。主催者のあいさつの中で、この講演が可能になったのはRS氏の助力のたまものであり、次いで、RS氏への黙祷がささげられた。同氏は短期間の闘病の末、2015年5月20日に逝去したと。それからちょうど8か月、まるで夫人が彼の後を追っているようだ。

想像もしなかった展開に、陳腐な言い方ではあるが、RS氏との思い出が走馬灯のように頭に浮かんできた。当時所有していたイギリス・アスコット競馬場の特別室に招待し競馬を楽しんだこと、出張時の同氏の定宿であるホテルオークラで落ち合い、彼の好物だった鉄板焼きに招待したこと、杉並の拙宅にまで来てもらったことやその返礼で南麻布の彼の自宅に伺ったこと、こちらがロンドンに滞在中、サウスケンジントンの同氏の英国の自宅で3人のお子さんに会ったこと、自分がニューヨークに転勤する直前に、築地寿司清本店で寿司を食べたこと、10年ほど前になるが、エストニアに出資する案件で彼の人脈を使って無事完了できたことなど、思い出は尽きない。今日は彼と夫人を偲んで一日静かに過ごしたいと思う。

 

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吉祥寺ダルジャン閉店

2016年04月08日 22時28分08秒 | 日記

吉祥寺には自宅から徒歩で行ける上に、かつては歩道を占拠していた違法駐輪の自転車も完全に姿を消して街並みがすっきりしてから月に一度程度のんびりと歩くことにしている。活気のある街だし、最近、駅ビルも立て直されて時間をつぶすのには事欠かない。ただ、この街はいつも人で溢れていて落ち着いて食事をとることができないのが難点だった。

そんな中で10年ほど前になると思うが、アーケードの、東急百貨店にもうすぐというところで入口に掲揚してあったイタリア国旗に誘われて何となくはいったのがイタリア料理店ダルジャンだった。それまで吉祥寺で入ったレストランは雰囲気やサービスに何かしら不満が残って、また行ってみたくなるようなところが見つからずにいた。ダルジャンは、紅白のチェックのテーブルクロスがいかにも気の置けないイタリア料理店の雰囲気を醸し出していたので一目で気に入ってしまった。それ以来、吉祥寺でイタリア料理の食べるときは、家族であれ、友人であれこのダルジャンとすることに決めていた。2月上旬、久しぶりに夜訪れた時、オーナーの老婦人が客の少ないことを嘆いていたが、いつもの口癖かと気にも留めなかった。そして4月3日、満開の井之頭公園の桜を見物する前に腹ごしらえと思い、いつものアーケードを歩いていくと先に見慣れたイタリア国旗があり一安心した。ところが入口のある階段のところに来てみるといつもは出ているメニューを書いた看板が見当たらず、おろされたままのシャッターには、3月31日をもって閉店、との張り紙あり。

思えば、いつも赤ワインをフルボトルで注文していたものの、自分は必ずしも単価の高い客ではなかった。ほっと寛げる美味しい行きつけのレストランがなくなるのはとてもさみしい気分だ。ここのところの円安にもかかわらず長い間1600円にずっと据え置きだった吉祥寺ワインが忘れられない。このレストランの経営が生きがいのように見えた、少し背の曲がったオーナーの老婦人は今頃どうしているのだろう。

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今日の善福寺川緑地公園ーー桜、チューリップ、猫

2016年04月04日 15時02分07秒 | 日記

 

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