今年5月、岩波文庫からユゴーの「ノートル=ダム・ド・パリ」(辻昶、松下和則訳)の改版が出版されたのでアマゾンで購入した。読みかけの本がいくつかあったのでしばらく書棚に置いていたが、今月に入って読み始めて今日読了。主要な登場人物がそれぞれに壮絶な死に方をするというのは、ユゴーらしいといえばその通りだ。
原作を離れて映画やミュージカル、あるいは子供向けにストーリーが変えられるというのはよくあるケースだが、この長編小説も善人と悪人とが入れ替わったり、まったく異なった結末、すなわちハッピー・エンドになったりしているものが多くある。しかし、この劇的な展開はどのような亜流のストーリーも超えることができない。それどころか、原作の品位を貶めているともいえる。原作者のストーリーを勝手に変更するというのは実質的に剽窃あるいは盗作とさえ言えるだろう。
中世の化身のようなノートル=ダム寺院に向けられるユゴーの憧れに満ちた眼差しは、レ・ミゼラブルにあるパリの地下水道に対する偏執なまでの詳細な描写と通じるものがある。執筆中に7月革命に遭遇するなど、成立過程のフランスの歴史にも興味がつきない。一方で、聖職者による性犯罪が多発している昨今の現状を見れば、ここで描かれている司教補佐の身勝手な肉欲の深さはきわめて今日的でもある。
エスメラルダの愚かな純情が最後の最後に彼女の死を招くし、フロロの理不尽極まりない偏狭な嫉妬が自身とエスメラルダの破滅を招く。そんな中でカジモドの一途で献身的な愛情だけが救いだ。カジモドは白骨となってエスメラルダへの愛が成就し、それが引き離されるときにはこなごなに砕け散ってしまったというこの小説の最後はいかにも切ない。
人間の業の深さを徹底的に追求しているこの長編小説は河出書房での初出が66年前だか、改版を重ねて古さをまったく感じさせない秀逸な翻訳のおかげで一気に読み切ることができる。