回顧と展望

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合格者発表

2025年03月10日 18時35分43秒 | 日記

ここ数日、多くの大学の合格者発表が相次いでいる。すっかり他人事になっているが、考えてみれば(考えるまでもないか)自分もかつて人と同じように受験―合格発表という経験をしたものだ。

個人情報保護の叫ばれる今では考えられないことだが自分が受験した半世紀ほど前は、発表当日朝ラジオと新聞の速報で合格者の名前と出身高校名が流されていた。その日、どういう経緯か家の中が慌ただしくしていて、そんな時に家の電話が鳴り近くにいた自分がとってみると叔母の一人が合格のお祝いの電話をしてくれたのだった。その時は当たり障りのないお礼を言ったのだと思うがその叔母は教育熱心というか、自分の子供のことも含めて大学進学には並々ならぬ関心を寄せていた。だから、正直なところその電話の声の中に何か複雑な感情が込められていたように感じてしまったことを覚えている。

当時、自分にはこういう時に連絡しあうような友達もおらず、また父親は平素から受験のことで何か言うようなことはなかった(あとで聞いたところでは、父親の知り合いには無事合格して安堵した、と言っていたらしい)からその日は特に何もなかったような気がする。

ある程度自信があったという気もする一方で一抹の不安があったのは事実で、発表の後、立ち込めていた将来への不確実性が一つ減って、立っている地面がしっかりと固まってきたような感じがした。また、早春という言葉がぴったりの3月の冷たい澄んだ空気を突然差し込んできた朝陽が切り裂いて、すぐ近くに来ている春の匂い運んできたようにも思えた。

ただ、少し落ち着いてみると、癌との長い闘いの末前年九月に他界した母にこのことを伝える術のないこと、自分のとった母への態度を思い出すと息を詰まるような悔悟の念が湧き上がってきた。口に出すことはあまりなかったものの、最後まで自分のことを一番に心配してくれていたのが母だということはよく判っていた。

かつて自分に受験という過酷な数年を生き抜く気力や体力のあったことは何か信じられないような気がする。しかし、今の自分があるのは、ここを通過してきたからに他ならないことは確かだ。

 

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