少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

観察について

2008-06-21 20:45:41 | 哲学
天体望遠鏡でも写真でも、観察というのはとても大切なことだ。でも、観察というのはもちろんそういう趣味の場合だけではない。仕事でも観察はとても大切だ。市場動向や競合他社の動きなど、鋭い観察によって自らの次の一手を導き出さなくてはいけないのだから。

それではどうやればよい観察ができるのか。まず考えられるのが先入観を捨てること。こうなるはずだ、ああなるはずだと頭の中で決めてしまっていては、なかなか良い観察をすることはできないだろう。邪念を捨てて対象に向き合うことができれば、まずは第一関門突破といってもいいだろう。

では次のステップは何かということになるのだが、どうも頭の中を空っぽにしてしまうだけでは良い観察はできないということも事実らしいのである。目の前にあるものをたただ写し取っていく作業をいくら繰り返しても、それでは出来の悪いデジカメ写真しか生まれない。何かに着目して、言い換えればテーマを持って対象に立ち向かう姿勢もまた、とても大切なことなのだと思う。観察というのは客観的であると同時にきわめて主観的なものでもあるのである。科学というのはだれがやっても同じ結果が出ることを積み上げたものであって、主観をできるだけ排除しなければいけないとよく言う。ある程度まではそれは事実なんだろうけど、物理現象も、結局それを観察するわれわれがいるから、それは物理現象として認識されるわけで、そういう主観を全く排除したところに意味はないと思う。

で、最初の観察の仕方の話に戻ると、結局客観的であり、主観的であるべきなどどいう、わけのわからないことに結論が落ち着いてしまった。これでは、どうしていいかさっぱりわからない。でも、このよくわからない結論にも意味はある様な気がしている。つまり、よい観察というとのは、主観と客観がごちゃまぜになったときに生まれるのではないかと。それって何と思うかもしれない。それは『迷い』である。月のスケッチをしていて、

『ここに小さなクレータがあるはずなんだけどなあ』

と思って望遠鏡を眺める。次の瞬間にはデジタルカメラのように主観を捨てて画面の濃淡だけに集中する。そしてまた元に戻って本に出ているクレータのあるべき位置を探してみる。こんな繰り返しが大切なんだと思う。

うまく言えないけど、上にあげた例のように主観と客観の混在は別に時系列になっている必要はないかもしれない。逆にそういう風に理路整然と二つが分けられているのは、あまりいい観察ではないかもしれない。本当の観察というのは、もっと迷いに近いような不安な心境に近いような気がする。仕事でもそう、何かを見つける直前というのはとても辛く迷いが深いに違いない。自分でやっていることが正しいのか悪いのかよくわからない、でもあきらめずに前に進む、そんなときふっと遠くが見えるときがあるような気がするのだが。