人と話をする。相手と意見が違うことだってある。そしてしばらく話をしていると、自分の方の考えの方がいいということになる。めでたしめでたし。
議論に勝つってどういうことだろうって、最近思うことがある。ふつうは自分の意見が通ったんだからうれしい気がするはずだろう。でも、最近、そういう風には思えない時があるのだ。なぜか。
それは、すべての考えというのは完ぺきではありえないから。もし、その考えは正しいということになって、それ以上の思考をしなければ、その正しい議論の背後にあるはずの他の考えに到達することはできない。すべてはめでたしめでたしでそこで終わってしまう。
でも、もしその議論に負けてしまえばどうだろう。悔しいから、またあれこれと考えを続けることができる。議論が稚拙でふらふらしているからこそ、その考えは存在し続けることができるのだ。完璧であればある程、その議論はただの記号となってわれわれの意識から消えていってしまう。空虚な記号となってしまう。
あなたが今日議論に負けたとしよう。それは素晴らしいことに違いないのだ。そして議論に買った人に、そっと手を合わせておこうじゃないか。彼らはそこで考えるのをやめてしまったのだ。そしてそういう彼らのおかげでわれわれは、また思考を続けることができる。ありがたいことに。
議論に勝つってどういうことだろうって、最近思うことがある。ふつうは自分の意見が通ったんだからうれしい気がするはずだろう。でも、最近、そういう風には思えない時があるのだ。なぜか。
それは、すべての考えというのは完ぺきではありえないから。もし、その考えは正しいということになって、それ以上の思考をしなければ、その正しい議論の背後にあるはずの他の考えに到達することはできない。すべてはめでたしめでたしでそこで終わってしまう。
でも、もしその議論に負けてしまえばどうだろう。悔しいから、またあれこれと考えを続けることができる。議論が稚拙でふらふらしているからこそ、その考えは存在し続けることができるのだ。完璧であればある程、その議論はただの記号となってわれわれの意識から消えていってしまう。空虚な記号となってしまう。
あなたが今日議論に負けたとしよう。それは素晴らしいことに違いないのだ。そして議論に買った人に、そっと手を合わせておこうじゃないか。彼らはそこで考えるのをやめてしまったのだ。そしてそういう彼らのおかげでわれわれは、また思考を続けることができる。ありがたいことに。