昼休みに春の日差しを浴びようと蒲田の街を歩いてみた。ちょっと空気は寒いけど、背中に当たる太陽の光が心地よい。路地を歩いていると、目の前には交通標識や道路が見える。ちらほら人も歩いている。おっと郵便局の車も走ってきた。そうしたありきたりの景色の中に私はいた。それら私の見える世界のすべては複雑に絡み合って存在している。木は根っこによって地面に立っている。車だってアスファルトに力を預けて前に進んでいる。その車の持っている慣性は、次の瞬間に車がどっちへ行くかを決めている。すべての事柄は、そうした必然によって結びついた因果のネットワークの中にある。がんじがらめのネットワークの中心に自分がいる。見えない無限の糸が春の光の中にちらっと見えたような気がした。今という瞬間を変えることは不可能なようにも思える。そして、そうした周りの巨大な力の中にギアとしての自分がいる。次に何をしようと考えるかも含めて、それは自由意志などではない。世界との相互作用の中で必然的に決まることに過ぎない。それは悲しいことなのか?そうではないか?
うーん、それはよくわからないけど、次に何が起こるかを予想して、起こったことをかみしめ見る。それは楽しいことに違いない。自分の人生を観察する喜び。それが、どんな結末であっても。写真を撮ってみて、どんな写真が撮れたかを楽しみを持って見てみること。ふーん、こういうことでしたか。今日も発見があるんだね。
うーん、それはよくわからないけど、次に何が起こるかを予想して、起こったことをかみしめ見る。それは楽しいことに違いない。自分の人生を観察する喜び。それが、どんな結末であっても。写真を撮ってみて、どんな写真が撮れたかを楽しみを持って見てみること。ふーん、こういうことでしたか。今日も発見があるんだね。