ちょっと前に買ったConnected: Power of Our Social Networks and How They Shape Our Lives という本、人と人とのつながりに焦点を当てて社会のいろいろな現象を研究した本だ。
その中にある一つのエピソードがデブは伝染するという話。
そんな馬鹿なと思うかもしれない。デブという「病気」を引き起こすウイルスがいてそれが人から人へ伝染していく、という話ではもちろんない。そうではなくて、人と人とのネットワークの中で、人の心を媒体としてデブ(それだけでなく実にさまざまなことが)が広がっていくという。
たとえば自分と仲の良い人Aさんが食べすぎで太ってしまったとしよう。私は、それを見て
「おやおや、Aさん、太ってしまったようだね。」
というかもしれないが、それでもその友達との関係がおかしくなることはなく、以前同様彼は私の友達であり続けるだろう。そして、そのことは私の中でのデブの許容レベルを少しだけ押し下げる働きをするのだという。
次の日、私は別の友達Bに会う。すると彼も以前より少し太っていたとする。以前の私なら
「だめだよ、Bさん、そんなに太っちゃ。」
と言ったかもしれないが、昨日の経験によって私のデブ許容レベルは多少下がっているから、
「まあ、そんなに太っているわけじゃないね。」
と、Bさんのデブ化に対して肯定的な表現に変わってしまうかもしれないのだ。そして、その言葉は友達Bのデブを助長する方向に働くというわけだ。
この一連プロセスの中で、私は決してデブを伝染させようと思ったわけではない。でも、結果的に最初の友達Aのデブをもう一人の友達Bに伝染させる媒介をしてしまっているのである。
この本によると、こういう人から人への影響の伝播は3レベルくらいまでは広がることら知られているという。誰かが何かをすると、その影響はその人の知人の知人の知人にまで及ぶということだ。多くの場合、三番目の知人を私が知っている可能性はかなり低いだろう。それでも社会的なネットワークの中で影響は伝播していくのだ。今巷を騒がせているインフルエンザの流行とそっくりの状況だ。
人はみな自由意思を持って動いている、と思っている。でも、この話を読むと、人の行動・思考というのは、その人が属する社会的なネットワークの中の実にたくさんのさざ波の交点にすぎず、それらの相互作用によってその行動はほとんど必然的に決まっているとも思えてくる。自分が自由に行動していると思っているとき、その実はまわりにいる人を互いにコピーしているにすぎないのかもしれないのだ。
ちょっと唐突だが、建物を建てるときに最初に神主さんを呼んでお祓いをやる風習が日本にはある。そうした行動を非科学的と切って捨てるのは簡単だが、工事に参加する人々の中に安全を願う心を芽生えさせ、それを人的ネットワークの中に広がらせようとする仕組みと考えると立派な科学に思えてくる。神社のご神体が、実はただの鏡一枚であったとしても、そこには立派な意味があるのである。
その中にある一つのエピソードがデブは伝染するという話。
そんな馬鹿なと思うかもしれない。デブという「病気」を引き起こすウイルスがいてそれが人から人へ伝染していく、という話ではもちろんない。そうではなくて、人と人とのネットワークの中で、人の心を媒体としてデブ(それだけでなく実にさまざまなことが)が広がっていくという。
たとえば自分と仲の良い人Aさんが食べすぎで太ってしまったとしよう。私は、それを見て
「おやおや、Aさん、太ってしまったようだね。」
というかもしれないが、それでもその友達との関係がおかしくなることはなく、以前同様彼は私の友達であり続けるだろう。そして、そのことは私の中でのデブの許容レベルを少しだけ押し下げる働きをするのだという。
次の日、私は別の友達Bに会う。すると彼も以前より少し太っていたとする。以前の私なら
「だめだよ、Bさん、そんなに太っちゃ。」
と言ったかもしれないが、昨日の経験によって私のデブ許容レベルは多少下がっているから、
「まあ、そんなに太っているわけじゃないね。」
と、Bさんのデブ化に対して肯定的な表現に変わってしまうかもしれないのだ。そして、その言葉は友達Bのデブを助長する方向に働くというわけだ。
この一連プロセスの中で、私は決してデブを伝染させようと思ったわけではない。でも、結果的に最初の友達Aのデブをもう一人の友達Bに伝染させる媒介をしてしまっているのである。
この本によると、こういう人から人への影響の伝播は3レベルくらいまでは広がることら知られているという。誰かが何かをすると、その影響はその人の知人の知人の知人にまで及ぶということだ。多くの場合、三番目の知人を私が知っている可能性はかなり低いだろう。それでも社会的なネットワークの中で影響は伝播していくのだ。今巷を騒がせているインフルエンザの流行とそっくりの状況だ。
人はみな自由意思を持って動いている、と思っている。でも、この話を読むと、人の行動・思考というのは、その人が属する社会的なネットワークの中の実にたくさんのさざ波の交点にすぎず、それらの相互作用によってその行動はほとんど必然的に決まっているとも思えてくる。自分が自由に行動していると思っているとき、その実はまわりにいる人を互いにコピーしているにすぎないのかもしれないのだ。
ちょっと唐突だが、建物を建てるときに最初に神主さんを呼んでお祓いをやる風習が日本にはある。そうした行動を非科学的と切って捨てるのは簡単だが、工事に参加する人々の中に安全を願う心を芽生えさせ、それを人的ネットワークの中に広がらせようとする仕組みと考えると立派な科学に思えてくる。神社のご神体が、実はただの鏡一枚であったとしても、そこには立派な意味があるのである。