24節気の小雪ながら穏やかな日、同年代の男グループが地域の史跡を巡った。
故郷がどこであれ、そこに人の営みがある限り歴史があり足跡が残されている。
くしくも今年は、渡良瀬遊水地がラムサール条約に登録され、その遊水池の歴史
に大きな関わりを持った田中正造翁の99年忌(来年が没後100周年)にあたる。
翁のお墓の一つが北川辺にあり、今回の史跡訪問の最初に敬意を持って訪れた。
田中正造翁は、その一生と私財を鉱毒防除と被害者救済活動に投じた人である。
そのお陰で北川辺地域は廃村を免れ、地域が存続し 現在があると言っても良い。
正造翁は現在の栃木県佐野市に生まれ、県議を経て明治23年の第一回衆議院
選挙に当選し連続当選していたが、足尾銅山の鉱毒流出によって下流地域で作
物の立ち枯れ被害が発生すると、被害民の救済と政策の転換を政府に訴えた。
さらに流域の農民たちは、「大押出し」と呼ぶ陳情デモを実行し警官隊と衝突した。
しかし政府が産業振興を優先して解決を図らないとの思いから、田中正造は明治
34年1月、国会での大演説を残し議員を辞し一身を賭して天皇に路上直訴した。
時の政府は、問題の解決を計るため鉱毒調査委員会を設置して協議したが、その
結論とは公害問題を治水問題にすりかえた「廃村による遊水池化構想」であった。
その翌35年の秋、北川辺では利根川筋の堤防が決壊し全域が水浸しになった。
遊水池構想を持っていた政府は、堤防の補修を意図的に行わず 放置する姿勢を
とったため、北川辺(当時は利島村・川辺村)の村民は、田中正造翁の支援を受け
て協議会を立ち上げ 村民大会を開催。国の堤防補修がなければ村民が自前で堤
防を築くこととし、その代わりに納税と徴兵の二大義務も負わないことを決議した。
この事から政府は、この地の遊水池化を断念 谷中村中心の規模に縮小変更した。
現在の渡良瀬遊水地は、この時の変更に沿って造成され改修されたものになる。
「遊水地には 鉱毒被害 農民運動 谷中村廃村の歴史がある」と、ひげ爺の独り言。
田中翁没後100年の来年には、地域として何らかの行事を行うことになるだろう。