私の住む加須市北川辺のお隣り茨城県古河市は、室町時代から戦国にかけ
て東国関東の府となった所で、古河公方五代120年間の「夢の跡」でもある。
足利尊氏が開いた室町幕府は、関東を分国統治するため鎌倉府を置いたが、
五代鎌倉公方の足利成氏は、豪族や管領との内紛によって古河に移府した。
以後 古河は東の都・第二の鎌倉となり、府の主は代々古河公方と呼ばれた。
その館は渡良瀬川沿いの地にあったが、現在は古河総合公園になっている。
また市内には、成氏が鎌倉から勧請した 長谷寺や八幡宮などが残っている。
秋晴れに恵まれたこの日、古河総合公園に車を進め 園内を散策して廻った。
そこは小高い丘と沼とが入り組んだ地形で、一角には御所沼に三方を囲まれ
た半島のような丘地があり、その森に「古河公方館址」 の石碑が立っている。
公方館は度々改修されたが、館とは別に「城構え」が北側隣地に拡張された。
五代公方義氏の頃、城は戦国の城郭機能を持つ「古河城」として整備された。
その後、家督争いや豪族間紛争によって 北関東での支配力も徐々に弱まり、
後北条氏の影響を受けたのち、豊臣秀吉の関東征伐により体制は終焉した。
江戸時代の古河城は、地理的背景から徳川幕府の譜代が城主となってきた。
しかし 城は明治初期に廃され、明治末には河川改修により遺構まで失った。
古河市街地に車を進め、古河城の出丸跡にある 「古河歴史博物館」を訪問。
そこは 「諏訪曲輪」の跡地で、周辺に城下町の面影を少しばかり残している。
『句に「夏草や兵どもの夢の跡」、でも古河は 城跡もない城下町』 と、独り言。
今は秋、ハギ キキョウ クズ フジバカマ オミナエシ オバナ ナデシコ が七草。
て東国関東の府となった所で、古河公方五代120年間の「夢の跡」でもある。
足利尊氏が開いた室町幕府は、関東を分国統治するため鎌倉府を置いたが、
五代鎌倉公方の足利成氏は、豪族や管領との内紛によって古河に移府した。
以後 古河は東の都・第二の鎌倉となり、府の主は代々古河公方と呼ばれた。
その館は渡良瀬川沿いの地にあったが、現在は古河総合公園になっている。
また市内には、成氏が鎌倉から勧請した 長谷寺や八幡宮などが残っている。
秋晴れに恵まれたこの日、古河総合公園に車を進め 園内を散策して廻った。
そこは小高い丘と沼とが入り組んだ地形で、一角には御所沼に三方を囲まれ
た半島のような丘地があり、その森に「古河公方館址」 の石碑が立っている。
公方館は度々改修されたが、館とは別に「城構え」が北側隣地に拡張された。
五代公方義氏の頃、城は戦国の城郭機能を持つ「古河城」として整備された。
その後、家督争いや豪族間紛争によって 北関東での支配力も徐々に弱まり、
後北条氏の影響を受けたのち、豊臣秀吉の関東征伐により体制は終焉した。
江戸時代の古河城は、地理的背景から徳川幕府の譜代が城主となってきた。
しかし 城は明治初期に廃され、明治末には河川改修により遺構まで失った。
古河市街地に車を進め、古河城の出丸跡にある 「古河歴史博物館」を訪問。
そこは 「諏訪曲輪」の跡地で、周辺に城下町の面影を少しばかり残している。
『句に「夏草や兵どもの夢の跡」、でも古河は 城跡もない城下町』 と、独り言。
今は秋、ハギ キキョウ クズ フジバカマ オミナエシ オバナ ナデシコ が七草。