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赤ちゃんの様子がおかしいのに気付いたのは、まだ生後数か月目。発熱だった。生後六か月ぐらいまでは母親から受け継いだ免疫力で病気はメッタにしないと育児書で知恵を得ていた。少々の発熱は心配いらないはずだ。それでも新米ママとパパ。(どうしよう?どうしたらいいの?)と落ち着けない。考えは悪い方にばかり向いた。
「大丈夫だろ」「うん」
夫婦で言葉を掛け合い不安から逃れていた。でも発熱は続いた。三十九度前後。思い余って近くの小児科医院に走った。
「風邪をひいたかな」
先生は何事もない風に言った。それでも私たちには救いの言葉だった。
しかし、発熱は解熱剤でも下がらなかった。まだ寝返りも言葉も発せられない赤ちゃん。赤くなった顔を見守りながら何もなすすべがない歯がゆさが続いた。二度目の診断も、やはり風邪。解熱剤を貰っただけ。氷やアイスノンで冷やしてやるだけ。無力さだけが募った。そんな時に救いの手が。
「そんなに高熱が続くのはおかしいよ。評判のいい小児科のセンセイ知ってるから、そこで診て貰いなさい」と、知人で三人の子供の母親が教えてくれた。早速、教えられた小児科医院に走った。
「これは川崎病かも知れないな。日赤病院の小児科を紹介するよ」センセイは即断した。
翌日日赤へ。そして診断の結果、即日入院となった。
入院した赤ちゃんを中心にした生活が始まった。一日中ぐたーと寝たままの赤ちゃんを、ベッドの脇で見守り続けた。今まで聞いた事もない『川崎病』の病名。(川崎って公害病?)未知の不安に苛まれるばかりだった。
川崎病は血液の病気らしかった。動脈瘤破裂の恐れと付き合わなければならないのだ。
甘い新婚生活が一転して、辛く長いわが子の闘病生活との向き合いが始まった。検査検査と連日続いた。ひと時も付き添いから離れられない。同じ病気や小児ぜんそくで闘病生活を送っている子供たちとの大部屋。ちいさな入院患者のママ友たちとも仲良くなった。明日に向かっての我が子への希望。みんな苦しみ、そして乗り越えるのに懸命だった。
「どないや。少しはええ徴候出てるか?」
深夜に仕事終わりで駆けつける夫は、いつも優しかった。赤ちゃんを覗き込む夫の笑顔は、私の心の救いにもなった。自分で調理したおかずをたっぷり詰め込んだお弁当は、私の疲れを癒してくれた。
入院が何週間にも及ぶと、疲れはピークに達した。不安や焦燥でどうしようもなくなった感情をぶつける相手は夫だけである。耐えて妻の絶望感をしっかりと受け止めてくれた夫。彼の思いやりがなければ、私は離婚の道を選んだかも知れない。そんなせっぱ詰まった崖っぷちに追い込まれていた時である。
「ああん」
ベッドの赤ちゃんが声を出した。少しいやいやをするかのように体を動かし始めた。目も輝いている。(見えているのだろうか?)でも、彼女は生きている。私と夫にはかけがいのないちいさな命が、ちゃんとそこにあった。ぎすぎすして心が破れかけていた二人の目の前に、愛の天使として蘇ってくれたのだ。
「……頑張ろうや、俺たち。こいつは俺たちが守ってやらなきゃ」「……うん!」
ほぼ一か月近い入院を乗り越えた。
「あとは定期的な検査で、副作用の動脈瘤に気を付けるだけでいいでしょう。よく頑張りましたね。退院おめでとうございます」
小児科のセンセイの顔が神様に見えた。
もう母親を認識してるだろう赤ちゃんを抱く私の傍にピタリ。力強い夫の姿があった。