こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

母を恋うる記(もうお母ちゃんを泣かせへん)

2014年12月31日 00時01分58秒 | 文芸
母を恋うる記(もうお母ちゃんを泣かせへん)

十七歳の夏、その事件は起きた。母の悲痛な顔、物心ついてからこっち初めて見る表情だった。小さい頃からおとなしくてかしこい子どもで通ってきた。何の問題もない自慢の息子が、思いもかけない不祥事を起こして警察沙汰になってしまったのでは無理もない話だった。
 お喋りの母が全く口を開くこともなく、ひたすら私を見つめる目に、私への不憫さだけがあるように感じた。それが私の不貞腐れた胸の内を直撃した。申しわけないことをしてしまったとの思いが、私を耐えきれなくさせた。
反抗期に入ってからこっち、親を無視しっぱなしだった私が、母や父を前にもう子どもに戻って涙を流し、頭をあげられぬままだった。
半年近い施設生活から家に帰った時、母は嬉しくてたまらないという様子で迎えてくれた。
「お帰り、疲れたかい?お風呂にお入り」
何もなかったかのような母の態度と言葉は、世の中から落ちこぼれてしまって、どん底に近い気持ちになっていた私を温かく包んでくれた。私は思わず頬笑みを取り戻していた。
心地よい久しぶりの家の風呂につかっていると、不思議に元気が湧いてきた。
「湯加減はどないや、ぬるうないか」
 母だった。焚き口に座り込んだ母に泣いている気配が感じられた。
「お前が、無事に帰ってきて嬉しいんや。やり直したらええんやから、それでええんやから。お母ちゃんやお父ちゃん……何もできんでごめんやでな……」
 私は首まで湯に沈みこんで、母がポツリポツリ語りかける言葉に耳をひそめていた。しかし、母はあくる日から事件やこれからのことについては何も口にしなかった。ただ以前みたいに明るいお喋りの、普通の母に戻って私に接してくれた。仕事で忙しい父と顔をあわせるのは食事時ぐらいしかなかったが、その時も母は全く昔のままの雰囲気を作り出してくれた。家に戻って二週間近く、母は私が好きなように時間を送るのを見守ってくれた。
「どないする、学校?」
 私の心がようやっと落ち着いてきたのを見計らったように、母はそう持ちかけた。
「お前の好きにしたらええ。働きたかったら、それでええしな。学校はもう一度受け直してみたらって、中学校のI先生が言ってくださってるんやけど、自分で決めるこっちゃ」
 私が好きに送っていた二週間の間に、母が何度も中学校へ相談に行っていたのは、何となくわかっていた。しかし、母はそれをおくびにも出さず、私に判断を任せてくれた。
「オレ、学校に行きたい」
 私の言葉に、母は相好を崩して何度も頷いた。
「それがええかもしれへんな。うん、そないしたらええ、そないしたら」
 母の笑顔、私が事件を起こして以来、本当に見る母の底抜けの笑顔が嬉しかった。
 私の受験勉強が始まった。母は適当にお茶や夜食を運んでくれた。
「無理せんときよ。身体こわしたらどないもならへんのやから」
 母の優しさに包まれた私に何も不安はなかった。なるようになれだ!の心境になると、とても気分がラクになった。
 私は新しい高校に合格した。
 入学式に付き添ってくれた母の晴れがましい顔に、私は胸の奥深くで誓った。
(もうお母ちゃんを泣かせへん。あんな悲しい顔、二度と見るのんイヤや。どない辛かったかて、我慢したる。お母ちゃん、喜ばしたるさかい、待っとれや)
 帰途の電車の中で隣り合わせて座った母は、チラッと私を見て呟くように言った。
「やっと一歩やなあ」
 そうだ。私の人生のやり直しは、やっと一歩歩み出したところだった。これから気の遠くなるような道のりの私の人生がある。それは母に助けてもらえない私の人生なのだと、私の身体は緊張して震えた。
 妻と三人の子どもに恵まれ、仕事と趣味を両立させて、充実しきった私の今の人生の起点は、あの三十年前にある。あの事件が、そしてあの母や父の悲しい顔を見たことが始まりだった。そして、その人生のやり直しへの道をそーっと導いてくれたのは、間違いなく私の母――『お母ちゃん』だった。
 もうすぐ八十になる母は、老いたりといえども健在そのものだ。親不孝な息子のために酷使続けた身体は老い、不自由になった足腰も何のその、足を引き摺りながら、近くの畑で野菜作りに精を出す。
「もう家でゆっくりせいな」
 私の言葉に母はニッコリしながらも、
「アホいえ、まだまだ若いもんに負けてられっかいな」
 それがいつもの母の言い草だった。あの逞しい母の生きざまと息子への愛情の深さを、私は決して忘れはしない。
          (四十七歳の時・記述)
 
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