「それがホンマかも知れんな、ハハハハ」
その日の父は不思議と機嫌が良かった。未だかって淳二の前で見せた事のない饒舌ぶりだった。
「おい、ちょっと一緒に行くか?」
立ち上がった父は、淳二の返事も待たずに外に出た。慌てて追いかけると、もう大分先を歩いている。背中がたくましく見えた。
父はズンズンと山道を登った。六十を過ぎたとは思えない足取りだった、
「ちょっと一服するか」
父が足を止めたのは、村の有数の観光資源『揺ぎ岩』である。大きな岩が細い根元だけで支えられ、押すと岩が揺れた。言い伝えでは、善人が押すと揺れるらしいが、悪い心を持った人がいくら力を持って押そうと、決して揺れないと言うのだ。
淳二が子供の頃から、この岩はあった。いや正確に言えば何百年前からある訳だ。そして、淳二が押すといつも揺れた。単なる言い伝えではあったが、自分が善人と認められたようで、子供心に嬉しかった記憶がある。
松の根っこが地表に現れているのに腰を下ろした父は、ポケットをモゾモゾ探っていたかと思うと、板チョコを取り出した。
父とチョコレート、妙な取り合わせである。
「酒も煙草もやれんでのう。口が寂しい手ならんから、最近はこれを持ち歩いとる」
弁解しながら父は板チョコを二つに折ると、淳二にほって寄こした。
「ここは懐かしいじゃろうが、お前も」
「ああ、中学を卒業して以来だ」
子供時代は頻繁に足を運んだものだが、高校生になってからは、とんとご無沙汰だった。
「押してみろ、折角来たんじゃから」
「…ああ」
なにを今更子供染みた事をと思ったが、『揺ぎ岩』を見ていると、無性に押したくなった。一歩足を前に進めた。手を上げ岩膚に触れてみた。ザラッとした感触が懐かしかった。
思い切ってグイッと押した。だが、揺れない。ビクともしないのだ。揺れているかどうかは、岩の輪郭を樹影の中に見詰めていれば直ぐに判断出来た。今は確かに揺れていない。
「どうした?ちょっとも揺れんぞ」
父がはしゃいだ声を出した。
淳二は板チョコを全部口に頬張ると、両手に力を集中させて、もう一度押した。しかし、全く揺れる気配はなかった。
「わしにもやらせろ」
父が代わって岩を押した。今度は揺れた。じっと見上げる淳二の眼は岩の動きをとらえていた。押すタイミングのせいかも知れない。
「ハハーン、東京の暮らしに染まり過ぎたんを見透かされたんやな、ハハハハ」
父の何気ない言葉だが、ズキンと刺さった。
「なに、直ぐ元に戻れるさ」
父は板チョコを齧った。
「どうだ、淳二、暫く淳朗を助けてみるか?あいつ一人じゃ山まで手が回らんからな」
呟くように言った父は、やはりニッコリと淳二を見た。どうやら、その山に淳二を連れて行く途中らしい。淳二は無言で頷いていた。 (完結)
その日の父は不思議と機嫌が良かった。未だかって淳二の前で見せた事のない饒舌ぶりだった。
「おい、ちょっと一緒に行くか?」
立ち上がった父は、淳二の返事も待たずに外に出た。慌てて追いかけると、もう大分先を歩いている。背中がたくましく見えた。
父はズンズンと山道を登った。六十を過ぎたとは思えない足取りだった、
「ちょっと一服するか」
父が足を止めたのは、村の有数の観光資源『揺ぎ岩』である。大きな岩が細い根元だけで支えられ、押すと岩が揺れた。言い伝えでは、善人が押すと揺れるらしいが、悪い心を持った人がいくら力を持って押そうと、決して揺れないと言うのだ。
淳二が子供の頃から、この岩はあった。いや正確に言えば何百年前からある訳だ。そして、淳二が押すといつも揺れた。単なる言い伝えではあったが、自分が善人と認められたようで、子供心に嬉しかった記憶がある。
松の根っこが地表に現れているのに腰を下ろした父は、ポケットをモゾモゾ探っていたかと思うと、板チョコを取り出した。
父とチョコレート、妙な取り合わせである。
「酒も煙草もやれんでのう。口が寂しい手ならんから、最近はこれを持ち歩いとる」
弁解しながら父は板チョコを二つに折ると、淳二にほって寄こした。
「ここは懐かしいじゃろうが、お前も」
「ああ、中学を卒業して以来だ」
子供時代は頻繁に足を運んだものだが、高校生になってからは、とんとご無沙汰だった。
「押してみろ、折角来たんじゃから」
「…ああ」
なにを今更子供染みた事をと思ったが、『揺ぎ岩』を見ていると、無性に押したくなった。一歩足を前に進めた。手を上げ岩膚に触れてみた。ザラッとした感触が懐かしかった。
思い切ってグイッと押した。だが、揺れない。ビクともしないのだ。揺れているかどうかは、岩の輪郭を樹影の中に見詰めていれば直ぐに判断出来た。今は確かに揺れていない。
「どうした?ちょっとも揺れんぞ」
父がはしゃいだ声を出した。
淳二は板チョコを全部口に頬張ると、両手に力を集中させて、もう一度押した。しかし、全く揺れる気配はなかった。
「わしにもやらせろ」
父が代わって岩を押した。今度は揺れた。じっと見上げる淳二の眼は岩の動きをとらえていた。押すタイミングのせいかも知れない。
「ハハーン、東京の暮らしに染まり過ぎたんを見透かされたんやな、ハハハハ」
父の何気ない言葉だが、ズキンと刺さった。
「なに、直ぐ元に戻れるさ」
父は板チョコを齧った。
「どうだ、淳二、暫く淳朗を助けてみるか?あいつ一人じゃ山まで手が回らんからな」
呟くように言った父は、やはりニッコリと淳二を見た。どうやら、その山に淳二を連れて行く途中らしい。淳二は無言で頷いていた。 (完結)