板橋区の地名になった由来の橋は、
もともとは板でできた橋であった。
(一つ先の橋から見た板橋)
これが板橋宿に架けられていた橋である。
頼朝の時代にも、安房に逃れた後、
頼朝が兵を集めて集合した場所(義経記)として知られるし、
井伊直弼を桜田門で討ち果たした水戸の浪士が、
この板橋を渡って中山道を逃れたことでも名を残している。
幕末には、皇女和宮が江戸幕府の徳川家茂に嫁いでこの橋を渡り、
西洋砲術演習を披露した高島秋帆もこの橋を通過した。
北陸新幹線が開通した金沢の加賀藩下屋敷は、
板橋宿の北に約二十二万坪を占めていて、
参勤交代の時は、江戸に入る手前で、旅の疲れと埃を払い、
身支度を整える場所にもなっていた。
板の橋には関係ないが、間もなくの四月二十五日。
新選組の組長 近藤勇が板橋宿の外れで処刑されていて、
土方歳三が造ったお墓が残っている。
地元の人たちにより、この日に盛大なお祭りが催される。
そんな板の橋=板橋は、
今や桜の名所となっている。
下を流れる石神井川に沿って、飛鳥山のある王子まで、
石神井川の両岸には、びっしりソメイヨシノが植えられている。
日本橋を起点に中山道第一番目の宿場町、
板橋宿までの距離は二里二十五丁三十三間。(十㌔六百四十二米=10.642m)
板橋宿は三つの宿場からなっており、日本橋から平尾宿、仲宿、上宿となる。
今は東京に向かって上ると言うが、昔は京に向かって上ると言ったため、
京都側に近い宿を上宿と言った。
板橋宿の長さは平尾宿から上宿の外れまで2.2kmあり、
本陣は仲宿に脇本陣と共にあり、平尾宿と上宿にも脇本陣があった。
仲宿の本陣・脇本陣は共に飯田さんが、平尾宿の脇本陣は豊田さん、
上宿の脇本陣は板橋さんが運営していた。
中山道 江戸から京都までの間で、板橋宿は最大の宿場であった。
(板橋=板に見せかけたコンクリートの橋)
この橋を境に、後ろが仲宿、橋を渡った先が上宿となる。
板の橋の脇には高札場があり、旅人は笠を取って高札を読んだと言う。
(仲宿の商店街)
(石神井川の桜(ソメイヨシノ)
(花いかだ)
(真っ白にみえる石神井川の花いかだ)
(石神井川の桜2)
(石神井川の桜3)
(元加賀藩下屋敷内にあったので加賀さくら橋)
(加賀藩下屋敷内を表している地名加賀二丁目)
(兼六園をまねた(?)石灯篭=琴柱灯篭「ことじとうろう」)
もともとは板でできた橋であった。
(一つ先の橋から見た板橋)
これが板橋宿に架けられていた橋である。
頼朝の時代にも、安房に逃れた後、
頼朝が兵を集めて集合した場所(義経記)として知られるし、
井伊直弼を桜田門で討ち果たした水戸の浪士が、
この板橋を渡って中山道を逃れたことでも名を残している。
幕末には、皇女和宮が江戸幕府の徳川家茂に嫁いでこの橋を渡り、
西洋砲術演習を披露した高島秋帆もこの橋を通過した。
北陸新幹線が開通した金沢の加賀藩下屋敷は、
板橋宿の北に約二十二万坪を占めていて、
参勤交代の時は、江戸に入る手前で、旅の疲れと埃を払い、
身支度を整える場所にもなっていた。
板の橋には関係ないが、間もなくの四月二十五日。
新選組の組長 近藤勇が板橋宿の外れで処刑されていて、
土方歳三が造ったお墓が残っている。
地元の人たちにより、この日に盛大なお祭りが催される。
そんな板の橋=板橋は、
今や桜の名所となっている。
下を流れる石神井川に沿って、飛鳥山のある王子まで、
石神井川の両岸には、びっしりソメイヨシノが植えられている。
日本橋を起点に中山道第一番目の宿場町、
板橋宿までの距離は二里二十五丁三十三間。(十㌔六百四十二米=10.642m)
板橋宿は三つの宿場からなっており、日本橋から平尾宿、仲宿、上宿となる。
今は東京に向かって上ると言うが、昔は京に向かって上ると言ったため、
京都側に近い宿を上宿と言った。
板橋宿の長さは平尾宿から上宿の外れまで2.2kmあり、
本陣は仲宿に脇本陣と共にあり、平尾宿と上宿にも脇本陣があった。
仲宿の本陣・脇本陣は共に飯田さんが、平尾宿の脇本陣は豊田さん、
上宿の脇本陣は板橋さんが運営していた。
中山道 江戸から京都までの間で、板橋宿は最大の宿場であった。
(板橋=板に見せかけたコンクリートの橋)
この橋を境に、後ろが仲宿、橋を渡った先が上宿となる。
板の橋の脇には高札場があり、旅人は笠を取って高札を読んだと言う。
(仲宿の商店街)
(石神井川の桜(ソメイヨシノ)
(花いかだ)
(真っ白にみえる石神井川の花いかだ)
(石神井川の桜2)
(石神井川の桜3)
(元加賀藩下屋敷内にあったので加賀さくら橋)
(加賀藩下屋敷内を表している地名加賀二丁目)
(兼六園をまねた(?)石灯篭=琴柱灯篭「ことじとうろう」)
なかったんですよね~馬は除く。
地名の板橋区には古を感じさせるものがありますね。
また名もなきひとの数々の悲話もあるでしようね。
桜も古から心をとらえた花、身分ある人もなき人も
北海道でもこの余寒を越えると桜の賑わいの時。
「ぬ」のプレッツエルは食べませんでした。
ビールのつまみではないので(笑)
寒くて、桜を見ませんでしたね。
天気も悪かったので。
パリの教会の前で、桜をみました。
ソメイヨシノではありませんが。。。
埼京線の板橋駅の近藤勇の墓から三田線の板橋本町駅の板橋まで。
でも無事で何よりです。
海外旅行は何かと心配事が付きまといますね。
定年後カミさん連れて60か国海外を旅しました。
ドイツのプレッツエルボクも食べそこなったので、
食べてきてもらって味の感想をお聞きしたかったのです。
でも、未体験とは、次に楽しみが出来ましたね。
早く着き過ぎたら仲宿の喫茶店で時間調整したもんです。
埼京線の板橋駅の近くにも東京営業所があって両方を訪問する為に
良くその辺は歩いてましてね。
石神井川は数万年前には東へ流れずに今の
上野公園の西側へ流れていたと
なんの本か忘れましたが読みましたよ。
京浜東北線の王子駅の先で石神井川を渡りますが
そこが東京駅からの10kmポストの標識が立っているのを眺めながら通過してましたね。
徳川時代は、加賀藩下屋敷内を流れていて、
加賀藩の方は荒川と勘違いして、船運もあるようなことを、国許へ書き送っていますね。
昔、石神井川を数日かけて、水源から河口まで踏破しましたが、その時この辺りを歩きました。
また、現在、踏破中の中山道歩きでも、板橋宿を通り抜けました。
この様に、2度ここを通過しましたが、地名の加賀が、加賀藩下屋敷内を表していることは知りませんでした。
流れていたとの資料を発見しました。
「石神井川 wikipedia」で検索されて閲覧願います。
まんざらデタラメの書き込みとも思えません。
地元の貴兄が読まれて感想でも頂ければ幸いです。
合わせて神田川や善福寺川なども同じようなルーツが有るのか興味が湧いてきましたね。