楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

夏草や… (散歩に出て思うこと 31)

2004年06月15日 09時09分00秒 | つれづれなるままに考えること

(夏草や…)

毎日の日課である散歩も、最近は暑さに負けそうになる。
お気に入りの荒川土手の散歩コースも、
陽射しが強く日焼けで皮が剥けた。

夏草は5-60cmに生い茂り、歩いていると
ひざの辺りに当たる。
そろそろ刈る時期が来ていると思っていたら、
建設省もよく考えているらしく、
ブルトーザーで草刈りを始めた。

伸び放題になった髪の毛を、バリカンで刈るような
爽快さがあり、つい立ち止まって見入ってしまう。
夏草のアオ臭い匂いが鼻に快く感じられる。

草を刈った後にムクドリがやってきて、
虫でもいるのか、雑草の種が落ちているのか、
群れになって、しきりに地面をついばむ。
やがて鳩もやってきて、ムクドリと同じように
地面をついばむ。

空は何処までも青く、その向こうの宇宙には、
昼間は見えないが、無数の星がひしめいているに違いない。
春には花を一杯つけて、美しく咲き誇った桜も、
今は葉を繁らせて木陰を作り、
ベンチには若い男女が楽しそうに語り合う。

散歩をするものにとっては、至福の季節だ。
陽は明るくて晴れやかで気持ちよく、
顔を撫でる風も心地よい。

すぐに新しい雑草の芽が出て、
また青々とした葉を繁らせるだろう。
繰り返し繰り返し、毎日が過ぎていく。

散歩するものにとってなんと心地よい毎日だろう!!





残酷2 (生きる 16)

2004年06月14日 08時07分00秒 | つれづれなるままに考えること
(残酷2)
人間ほど残酷な動物はいない。

日本の下剋上の時代には、親を殺してでも
領土を守る?
名誉を守る?
ことがあった。

同じことは隣国の中国でも、親を殺して皇帝となり、
親の妻を息子が自分の妻にするなんてことは、
当たり前であった。
モンゴルのチンギス・ハーン(ジンギスカン)の
時代もそのようであったらしい。

もっとも、生みの親を自分の妻にしたのかどうかは知らない。
もし、生みの親を自分の妻にしたとしたら、
これは動物以下になってしまう。
しかし、そんなこともなくはない。

学生時代に読んだエッセイに、「墓碑銘」というのがあった。
横浜の外人墓地行くと分かるが、西洋人のお墓には、
墓碑銘が刻んである。

名前が書いてあり次に
何年何月何日生まれ、何年何月何日没す。と書かれ、
生きている間に行った業績が書かれている。

横浜の外人墓地では、
「一番最初に横浜港へ上陸した水夫ここに眠る。」
というようにである。

そのエッセイの墓碑銘には、
「姉であり、母であり、妻であった女ここに眠る」とある。

イギリスの片田舎に、娘、父母が暮らす貧しい農家があった。
つらい労働で母がなくなり、ある時、
間違いを犯し父が娘を姦淫する。近親相姦である。
その間に生まれた男の子は、あってはならない子供であり、
捨てることになった。
しかし、捨てられた子は、誰かに育てられ大人になる。

まもなく父親が亡くなり、女手一つでは手に余っていた
農場に流れ者の男がやってきて、農業を手伝うことになる。
流れ者の男は、仕事を真面目にこなすうち、
女に認められ結婚する。

ある夜、ベッドに裸でいる男の体に、見覚えのある痣を
女は発見し、この男が父との間に
自分が産んだ子供であることを知る。
そして男に、何もかも話して自殺した。

そんなエッセイであった。

「姉であり、母であり、妻であった女ここに眠る」
となった。

こんな残酷物語が、今、地球上にあってもおかしくない。





残酷 (生きる 15)

2004年06月11日 08時32分00秒 | つれづれなるままに考えること
(残酷)
ラストサムライを見たとき、サムライのハラキリと
首斬りを思い出した。

動物の中で人間ほど残酷な生き物はないと思う。

源平時代でも、赤穂浪士の時代でも、切腹と首斬りは
付いて回っている。

腹を掻き切って、その上首を刎ねる。
罪人はその首をさらしものにする。
晒された親類縁者は、夜陰にまぎれて
首を引き取り、胴体を捜して埋葬する。

日本では、源平時代から(もっと前からかも知れない)
明治の初めまでそんなことをしていた。
新撰組の組長 近藤 勇も、最後は捕らえられ、
近藤 勇本人かどうか分からないので、
首を刎ねて京都まで運び、確認したという。
まだ100年そこそこ前のことだ。

ハラキリも首切りも、磔も火焙りも、
人間のやることは、残酷なことこの上もない。

中国の「三国志」「史記」など読んでいると
もっと残酷である。
馬に牽かせた車二台に、左右の足を縛りつけ、
車を左右に走らせる刑。股が裂ける。
鼻を削ぎ、耳を削ぎ、両手両足を切断して、
トイレに入れておき、トイレ掃除をさせる刑。
時には、お客様があると妻を殺して、
その肉を煮て食べさせる。これが最高の饗応だという。

動物という動物は全部食べてしまう。
挙句に「食は広州にあり」と嘯いている。
その広州のレストランの中庭には、
食材の蛙や蛇は勿論、ネズミから猿まで、
生きた食材が檻の中でうごめいている。

人間の残酷さは推して計るべしである。
そんな残酷さを、人間は誰でも持っている。
「いえ、私は持っていません」と、
もし反論する人がいたら、その人にあって見たい。

まず、人間の食べ物である。
野菜穀物はともかく、魚、鳥、獣の肉を
食べることを考えてもらいたい。

料理方法ついて、今はどのようにしているか知らないが、
ボクの子供の頃は、誰かお客さんがあると、
飼っている鶏を絞め殺して、
毛をむしりとり、腹からはらわたを取り出して、
足、手羽、胸と解体して野菜と一緒に煮て供応した。

朝晩、餌をやり、汚れると鶏小屋の掃除をして、
可愛がってきた子供心には、耐えられないことであった。
あるとき、学校から帰ったら、叔父さんが家に来ていた。
飯台の上には美味しそうな臭いのする鍋があり、
叔父さんが美味しい美味しいといって食べていた。
ボクもどうかといわれ食べてみるとなるほど美味しい。
たらふく食べて、叔父さんが帰った後、いつもの習慣で
鶏小屋に行くと、一羽足りないので、
「鶏が一羽居ないよ!どうしたの?」と聞くと、
「さっき、お前のお腹の中に入っただろ」と言う。

意味がやっと解かった。その途端
「ゲー」と吐いた記憶がある。

一度その体験をすると、以後は平気になってしまう。
お客さんがあると、鶏を絞め殺して、毛をむしって、
お腹から臓物を出して、解体を手伝っても、
口に入れることが出来る。

実に残酷だ。

魚のように動物が小さいとさほど気にならない。
しかし、我が家のカミさんにボクが釣ってきた魚を
さばかせる時、魚が生きているとさばけない。
女性は気持ちが優しいのであろうか?
ただ格好をつけているだけなのだろうか?

解からない!

しかし残酷なことには、変わりない。
動物が大きくなればなるほど、残酷さを感じる。

例えば豚、牛、馬。

殺す現場を見たことはないが、殺されてごろごろ
横たわっているところを、見かけたことはある。
あの大きな体がごろんと横たわっているところを見て、
これを食べていると思うと、その場ではいたたまれない。

でも食べてみると美味しくて、殺されて横たわっている
姿など思い出しもしない。

残酷この上ない。

この分では、人が人を食べるなんてことが、
何処かであるらしいが、
あるいは餓えているとそんな気持ちになるかもしれないが、

人間ほど残酷な動物はいない。








約束時間 (散歩に出て思うこと 30)

2004年06月09日 08時43分00秒 | つれづれなるままに考えること
(約束時間)
待ち合わせの約束時間に遅れないように、
いつも10分前には約束場所に到着するよう
心がけている。

最近では、便利な携帯電話があって、
遅れそうになると電話して了解を得ているようであるが、
それでもボクは10分前には到着するようにしている。

これを「10分前の精神」と勝手に命名している。

若い時代に約束をして、約束場所に約束時間に
現れない人がいた。
いつもの癖で、ボクは10分前には現場にいたが、
相手は時間通りに来なかった。
確かに何かの避けられない事情で、
約束が果たせない時もあるが、
そんな時は、何らかの手段で相手に連絡をする必要がある。
しかも、約束時間前に連絡を取る必要がある。

しかし、その時は何も連絡もなく時間が過ぎていった。
何か事情があるだろうと30分待ったが、本人は現れず、
連絡もなかったので、約束は反古にした。

その後、約束相手に苦情を言うと、何か訳のわからない
理由をくどくどと言ったが、聞く耳を持たず分かったといった。
以後お付き合いはしていない。

失う時間がもったいない!

以来、約束をするときは、約束時間を15分過ぎたら
約束はなかったことにしようと、一言必ずつけて約束をしている。
デートの時もそうだ。
どんな美人でも、一目ぼれした女性でも、
15分待ってこない相手を待つことはないし、
第一約束を守れない人と今後付き合う気も起きない。
今の時間は取り戻すことが出来ないからだ。

この世は約束事で成っている。

それでも平気で約束を破る人がいる。

人は生まれた時、裕福な家庭に生まれる人もあれば、
明日の食事にも困るような貧乏な家庭に生まれる人もある。
どんな環境であれ、羨ましがったり、蔑んだりすることは無い。
生まれてきた人には、平等に時間が与えられているからだ。

どんなに裕福でも、裕福さには限度があり、
その先には、放っておけば貧乏が待ち受けている。
どんなに貧乏でも嘆くことはない。その先に
それ以上の貧乏は待っていないからだ。

どちらが幸せであるかというと、どちらとも言えない。
裕福な人は裕福さを維持しようと努力すれよいし、
貧乏な人は裕福になろうと努力すればよいからである。

裕福な人から見れば、今日の一膳にありつくことは
当たり前のことであっても、貧乏な人にとっては、
一日にこにこして過ごせるとても幸せなことである。

裕福な人には、この幸せを感ずることが出来ず、
その意味では、不幸せである。

これは一例であるが、一事が万事だ。

この幸不幸を克服できるのが、時間である。
そして、人間が一生に使える時間には限度がある。

その時間を有効に利用して幸せを掴んでもらいたい。









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