調子に乗って、ちょっと『べらぼう』の話
今回は吉原
明和九年(1772)、目黒行人坂大火は放火によって大災害となりました、これは江戸三大大火(残りは明暦と丙寅)のひとつに数えられています
この時、火付盗賊改だった長谷川宣雄は犯人を逮捕処刑した功績で京都西町奉行に出世しますが、現地で病死します
(京都華光院の長谷川宣雄の墓石は無縁仏の中に混ざっているそうです)
宣雄の息子が長谷川宣以、長谷川家は代々「平蔵」の通名を使うので「鬼平」として知られるようになりますが、宣以は若い頃に放蕩息子でした
(長谷川宣以が育った地)
(長谷川平蔵供養碑、新宿区戒行寺)
ちなみに、当時から「明和九年」は「迷惑年」と野次られ11月16日に「安永」に改元されます
さて、吉原は普段は堀で囲まれ大門しか出入口がない場所ですが火事などで焼き出されると復旧までは他の場所での営業が許され仮場での代金は安くなり面倒なしきたりも簡略化されるため客が増えることになり、場末の女性にも客が付きやすくなります
ドラマで火付をしようとした河岸見世の女性がいたのは、火事になれば客が来て満足な食事ができるようになるためでした
そして、吉原の年季が明けなかったり借金が残ったりして廓から出られずに亡くなった女性の遺体は近くの寺に運ばれて埋葬されます
吉原は浄閑寺というお寺でした
亡くなって寺に運ぶ時は襦袢姿ですが、埋葬の時に穴掘り人足が裸にして襦袢は古着屋に売りました。これが手間賃のような形だったのです
蔦屋重三郎は、吉原大門近くで養父の店を間借りして吉原を中心に回る貸本屋を行っていました
貸本屋の段階では自ら本を作って江戸市中で販売する版元の仕事はできません(株が居る)
そんなスタートだったのです
ちなみに、養家の苗字は「喜多川」
親類には初代中村仲蔵もいると言われていますが、この関係はあまりわかりません
(見返り柳)
(道から大門が見えないように曲がっている五十間道)
(吉原大門跡)
(大門と耕書堂の案内板)
(お歯黒溝の痕跡と言われる石垣)
(吉原神社)
(幕末の吉原を描いたとされる葛飾応為(北斎の娘)の『吉原格子先之図』(ポストカードを撮影))