彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

二俣川古戦場

2022年04月23日 | 史跡
畠山重忠の嫡男重保と平賀朝雅の争いから、朝雅が北条時政に重忠謀反を讒言し、北条義時が重忠討伐軍を率いて戦った合戦が、二俣川の戦いです。

重忠軍150騎
義時軍1万

だったと言われています。
元久2年(1205)6月22日正午頃に戦端が開かれ、圧倒的な戦力差にも関わらず重忠軍の士気に義時軍が押され続ける戦いにとなったと言われていますが、重忠が弓の名手愛甲季隆(源頼家の弓術師範)に射られて討死したのです。

そんな二俣川古戦場は、横浜市旭区にありますので訪問しました。

まずは、重忠関連遺構が鶴ヶ峰駅周辺に広がっています。
横浜市旭区役所には、重忠が討死した地に石碑が建っています。


また、重忠討死前に二本の矢を地に刺して「我が心正しければこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と念じ、その矢から竹が育ったと言われています(さかさ矢竹)。
その竹は一度枯れてしまい、この場所に植え直したそうです。


旭区役所裏には、重忠の首塚と首洗いの井戸跡。
しかし重忠の首は洗われたあとに鎌倉に送られたためこの塚は兜などの遺品を埋めた供養塚ではないか?とも考えられています。



首洗いの井戸も今は枯れてしまい、跡地に案内板があるのみです。



ここから高台を登って行くと、畠山軍143騎を葬った六ツ塚がある薬王寺






重忠の内室・菊の前が二俣川の戦いに際して戦場に向かっている途中、重忠討死の報を聞いて自害し、乗っていた駕籠のままその場に埋葬されたと伝わっている駕籠塚があります。



菊の前は、十三人の合議制に甥の安達盛長と共に名前を連ねた足立遠元の娘でしたが、北条時政の娘が重忠に嫁いだために一歩引いた立場となった女性でもありました。


続いて二俣川駅近くの万騎が原にある畠山重忠公遺烈碑です。
これは、明治25年(1897)に建立された畠山重忠の慰霊碑です。



他の二俣川の戦いの意向が鶴ヶ峰駅周辺に固まっているのに対し、畠山重忠公遺烈碑は二俣川駅にあります。
そして、この間には大変な高低差も感じられます。

碑がある万騎が原の地名は、この地に北条義時が陣を置いたことに由来すると言われていますので、現地を訪れると二俣川の戦いは高地に陣を張った北条軍と畠山軍が両軍の間にある二俣川周辺の低地に駆け下って激突した戦いと考えられそうです。

旭区の鶴ヶ峰駅から二俣川駅に跨ぐ二俣川古戦場は、自転車を借りるとゆっくり回っても3時間もかからない広さですが、高低差を知ることで現地訪問の価値が高くなる場所でした。

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