彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

二階堂氏と甲良町下之郷

2022年04月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は東国武士の物語が中心であるため関連する話はあまり書けないと思っていた。しかし所縁の地訪問やドラマ視聴時に気になったことを調べて行くと紹介したい事柄が湧き出てくる。今稿もそんな話である。

 源頼朝が鎌倉殿と呼ばれるようになり、東国で武家政権の足固めを築き始めた頃、京の公家から頼朝との縁を頼って東下りをし、鎌倉政権に組み込まれ官僚として活躍を始める人物も現れるようになる。のちの「十三人の合議制」に選ばれる中原親能・大江広元・藤原行政、そして京都から鎌倉に情報を送っていた三善康信である。今回はこの四人の中から藤原行政に注目したい。

 行政はもともと工藤姓を称し、ある系図によれば行政の曾祖父・工藤維兼の弟・維弘の子・周時が井伊家に繋がると伝えている。行政の父・工藤行遠は遠江国司を殺害し尾張に流されたと言われていて、ここで熱田神宮大宮司・藤原季範の妹を妻に迎え、生まれた子どもが行政だった。そして季範の娘・由良御前は源義朝との間に頼朝を生む。つまり頼朝は行政の母方の従甥(いとこの子)ということになり、血縁としても鎌倉にとって重要な人物でもあったと考えられるのだ。行政はそのような期待に充分こたえられるだけの成果を残し、奥州藤原氏討伐後に奥州合戦の犠牲者を慰霊する永福寺を頼朝が建立したときにこの近くに邸宅を構えることが許されたとされている。

 永福寺は当時の寺院建築には使われていなかった二階建ての本堂が用いられ、その珍しさから二階堂と呼ばれていた。このため行政も「二階堂殿」と呼ばれることが増えたと考えられる。このことから子どもの代から二階堂姓を名乗るようになった。また行政は、頼朝から絶大の信頼を得ていた大江広元と並ぶ政所別当を任されるようにもなり、頼朝没後には十三人の合議制に参加するが、源頼家幽閉後辺りに息子に跡を譲って政治の表舞台から引いたと考えられている。その頃に岐阜城の前身となる稲葉山城を築城したとの伝承も残っているが、なぜ行政が築城しなければならなかったかは謎であり資料も乏しい。

 藤原姓を使い続けた行政に対し息子は二階堂姓を称し、嫡男・行村は武官、次男・行光は文官として鎌倉幕府を支え子孫たちも鎌倉幕府の要職を歴任する。特に鎌倉幕府滅亡時に政所執事を務めていた二階堂貞藤(道蘊)は「朝敵の最一、武家の補佐」とみなされ、朝廷に嫌われて甲良町下之郷の二階堂宝蓮院で寓居させられたが、その能力が必要とされて建武政権に登用される。しかし北条時行が起こした中先代の乱に加担したと判断され六条河原で処刑されたのだった。

 二階堂宝蓮院は、織田信長によって破壊され本尊阿弥陀如来坐像は安土城下の浄厳院に移されるが、ご本尊様がどうしても元に居た場所を向いてしまうため、下之郷に向いて浄厳院が建立されたと伝わっている。


二階堂法蓮院址(甲良町下之郷)
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