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今回は、江戸時代の勉強についてご紹介しましょう。
寺子屋という言葉を知っていますか? 何か昔、テストに出るかもしれないと思って覚えた記憶がある単語ですよね、これは江戸時代の庶民の教育機関でした。
寺子屋には、男の子で7~8歳、女の子で6歳くらいから通い始め、5~9年で卒業(って言うのかな?)するそうです。授業のメインは読み・書き・ソロバン。女の子には裁縫なども教えていました。
先生となるのは、町人が殆んどでしたが、武士や僧侶・医者などの特別な職業の人も居たそうですよ。
先ほど、授業の内容は読み・書き・ソロバンと書きましたが、当時の印刷作業は全てが手作業だったため、本はとっても貴重な物で、大名屋敷では火事になった時に最初に持ち出すのが家宝よりも先に本だった程です。
そんな本を読む技能が、庶民の子どもになぜ必要だったんでしょうか?
実は、日本人ほど本が好きな民族は他に例を見ないからなんです、今でも、儒教の影響が強い一部の国を除くと日本以外の国で作家を名乗り、自分の出版した本を見せたならば、それだけで尊敬の眼差しを受けることとなります。
しかし、日本ではプロ・アマを問わず作家やそのタマゴの方は案外多く、メインの仕事の片手間に本をかかれる方も居るくらい身近なモノなのです(実際、管理人も他の事をしながら小説を書いたりしていますし…)。
江戸時代でも、堅いばかりの専門書だけではなく、例えば『南総里見八犬伝』や『東海道中膝栗毛』のような娯楽本が沢山書かれました。
そんな娯楽本でも貴重な本である事には変わりありませんが、一般の人たちは簡単に読む事が出来たのです。
それは、貸本屋というシステムでした。貸本屋は本の宅配業者で、風呂屋や床屋など人が集まる場所に本を置いて、時々交換していたのです。
本があれば、それを読みたいのが人情。こうして庶民は読む事を学び、読めれば書けるので習字も寺小屋で教えたのでした。
寺小屋精度は結果的にその後の日本の歴史に大きな足跡を残す事になります。
幕末、ペリーが来航した後、アメリカ政府は領事官としてタウンゼント・ハリスという人物を日本に派遣します。ハリスはニューヨーク市教育委員長としてアメリカ初の授業料免除大学である現在のニューヨーク大学の創始者でした。
その教育理念は「教育に民族・宗教・貧富の差があってはならない」というもの、日本という未開の後進国に高等教育を施すのがハリスの目指す所だったのです。
しかし、日本では寺小屋のお蔭で開国当時で識字率80%という世界最高基準をマークしていました、80%は今のヨーロッパの識字率であり、当時では精々30%程だったと言われています。
この事実はハリスを驚かせ、教育への介入を諦めさせました、もしハリスの思う通りの教育に変わっていたら今の日本人は英語を話していたでしょうが、今では99.9%以上の人が字が読めるという日本人の識字率は下がっていたかもしれません。
…とまぁ、難しい話ばかりしてきましたが、寺子屋は子ども達の遊び場でもありました。
教科書に載っている有名な絵の中には、先生から離れた所に居る子ども達が遊び回っている姿も生き生きと描かれています。
ただし、いたずらが過ぎると破門を言い渡される事もあったようです、こんな時、親が出向いてお詫びを入れるのではなく、「謝り屋」と呼ばれる赤の他人が破門を言い渡された子どもと一緒に頭を下げたそうです。
できるだけ穏便に事を済ませようとする知恵だったのかもしれませんし、親以外の他人を巻き込んだ事で、子どもの方が反省するのかも知れませんね。
さて、長々と寺子屋の話を書きましたが、彦根市内に昔の寺子屋の建物を利用した施設があります。
花しょうぶ通り商店街の中に残っていた旧寺子屋・力石を利用した「街の駅」で、彦根の歴史や文化を紹介するのは勿論の事、数々の催しや教室も開かれています。
畳の上には昔の道具が展示されていたり、ギャラリーとして作品を観る事ができたりします。
決して広い空間ではありませんが、その中には多くの彦根が詰まっていますよ。
また喫茶コーナーもあります、気軽に入れる空間ですから、肩を張る事なく商店街を歩き回って疲れた時などにひょこっと顔を出してみて、昔ながらの建物でちょっとした一服なんていかがですか?
寺子屋という言葉を知っていますか? 何か昔、テストに出るかもしれないと思って覚えた記憶がある単語ですよね、これは江戸時代の庶民の教育機関でした。
寺子屋には、男の子で7~8歳、女の子で6歳くらいから通い始め、5~9年で卒業(って言うのかな?)するそうです。授業のメインは読み・書き・ソロバン。女の子には裁縫なども教えていました。
先生となるのは、町人が殆んどでしたが、武士や僧侶・医者などの特別な職業の人も居たそうですよ。
先ほど、授業の内容は読み・書き・ソロバンと書きましたが、当時の印刷作業は全てが手作業だったため、本はとっても貴重な物で、大名屋敷では火事になった時に最初に持ち出すのが家宝よりも先に本だった程です。
そんな本を読む技能が、庶民の子どもになぜ必要だったんでしょうか?
実は、日本人ほど本が好きな民族は他に例を見ないからなんです、今でも、儒教の影響が強い一部の国を除くと日本以外の国で作家を名乗り、自分の出版した本を見せたならば、それだけで尊敬の眼差しを受けることとなります。
しかし、日本ではプロ・アマを問わず作家やそのタマゴの方は案外多く、メインの仕事の片手間に本をかかれる方も居るくらい身近なモノなのです(実際、管理人も他の事をしながら小説を書いたりしていますし…)。
江戸時代でも、堅いばかりの専門書だけではなく、例えば『南総里見八犬伝』や『東海道中膝栗毛』のような娯楽本が沢山書かれました。
そんな娯楽本でも貴重な本である事には変わりありませんが、一般の人たちは簡単に読む事が出来たのです。
それは、貸本屋というシステムでした。貸本屋は本の宅配業者で、風呂屋や床屋など人が集まる場所に本を置いて、時々交換していたのです。
本があれば、それを読みたいのが人情。こうして庶民は読む事を学び、読めれば書けるので習字も寺小屋で教えたのでした。
寺小屋精度は結果的にその後の日本の歴史に大きな足跡を残す事になります。
幕末、ペリーが来航した後、アメリカ政府は領事官としてタウンゼント・ハリスという人物を日本に派遣します。ハリスはニューヨーク市教育委員長としてアメリカ初の授業料免除大学である現在のニューヨーク大学の創始者でした。
その教育理念は「教育に民族・宗教・貧富の差があってはならない」というもの、日本という未開の後進国に高等教育を施すのがハリスの目指す所だったのです。
しかし、日本では寺小屋のお蔭で開国当時で識字率80%という世界最高基準をマークしていました、80%は今のヨーロッパの識字率であり、当時では精々30%程だったと言われています。
この事実はハリスを驚かせ、教育への介入を諦めさせました、もしハリスの思う通りの教育に変わっていたら今の日本人は英語を話していたでしょうが、今では99.9%以上の人が字が読めるという日本人の識字率は下がっていたかもしれません。
…とまぁ、難しい話ばかりしてきましたが、寺子屋は子ども達の遊び場でもありました。
教科書に載っている有名な絵の中には、先生から離れた所に居る子ども達が遊び回っている姿も生き生きと描かれています。
ただし、いたずらが過ぎると破門を言い渡される事もあったようです、こんな時、親が出向いてお詫びを入れるのではなく、「謝り屋」と呼ばれる赤の他人が破門を言い渡された子どもと一緒に頭を下げたそうです。
できるだけ穏便に事を済ませようとする知恵だったのかもしれませんし、親以外の他人を巻き込んだ事で、子どもの方が反省するのかも知れませんね。
さて、長々と寺子屋の話を書きましたが、彦根市内に昔の寺子屋の建物を利用した施設があります。
花しょうぶ通り商店街の中に残っていた旧寺子屋・力石を利用した「街の駅」で、彦根の歴史や文化を紹介するのは勿論の事、数々の催しや教室も開かれています。
畳の上には昔の道具が展示されていたり、ギャラリーとして作品を観る事ができたりします。
決して広い空間ではありませんが、その中には多くの彦根が詰まっていますよ。
また喫茶コーナーもあります、気軽に入れる空間ですから、肩を張る事なく商店街を歩き回って疲れた時などにひょこっと顔を出してみて、昔ながらの建物でちょっとした一服なんていかがですか?
この250年の貴重な建物が火事で消失したらしいですね。
放火なんでしょうか?
この250年の貴重な建物が火事で消失したらしいですね。
放火なんでしょうか
そうなんです、とても貴重な建物であったと思います。
そんな建物を今も活かしている前向きな場所でもありました。
原因はまだ調査中だと思いますが、火事発生時に無人ではなかったようですし、火事の後でも表の方はよく残っていましたので、放火では無いはずです。