片岡城は奈良県北部の北葛城郡上牧町に城跡を残す山城です。
両川は北側で分岐しているので片岡城は三方に川があります。
今は山の中に城の痕跡を残すだけですが、『麒麟がくる』の関連史跡のひとつでもあるのです。
上牧町にありますが、別称は下牧城と呼ばれています。
築城年は諸説ありますが、戦国時代黎明期には片岡国春という人物が戦国時代のポピュラーな山城として築城し、片岡氏の城になっていましたが、永禄12年(1569)4月から翌元亀元年11月まで片岡氏と松永久秀が城を取り合い、やがて久秀の支配が確定しました。
今見ることができる遺構は久秀による改修の痕跡があり『信長公記』には天守もあったとも言われています。
天正5年(1577)久秀が織田信長に反旗を翻し信貴山城に籠り、片岡城は松永軍1千を率いたの海老名友清・森正友が守ります。
10月1日に、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶ら5千が片岡城を攻め落としましたが、このときに藤孝の息子忠興・興元の活躍が素晴らしく信長から直筆の感状が与えられました。忠興に与えられた感状は信長の直筆が証明できる唯一の物として現在の一級資料になっています。
こののち、10月5日まで光秀らが滞在し、信貴山城に出陣して行った城です。
ちなみに、この時の明智軍の中にはのちの彦根藩筆頭家老木俣守勝も居たとの説もあります。
片岡城は、川に挟まれた地にありその川を天然の堀のようにしていました。
東川の葛下川
西側の滝川
両川は北側で分岐しているので片岡城は三方に川があります。
山に向かうと掘削の跡があり、曲輪であったことが伺えます。
そして一番の見所は松永久秀が作らせた大堀切です。
この上に天守があったとも言われています。
麓との高低差も見応えあるものでした。
今は山の中に城の痕跡を残すだけですが、『麒麟がくる』の関連史跡のひとつでもあるのです。