12月11日に明日香に行きました。
目的は新しく発見された「越塚御門古墳」の現地見学です。
新聞で『大田皇女の墓か?』と発表されていた新発見の古墳でした。
現地見学が始まるとされていた朝10時には既に長蛇の列ができていました。
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しばらく並ぶと、やっと見学できる場所に行けました。
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今回発見された越塚御門古墳に埋葬されているのは大田皇女という人物だそうです。その決め手は、斉明天皇と間人皇女の合葬された古墳が見つかっていて、この二人と一緒に大田皇女を埋葬した記録が『日本書紀』に記載されていたからなのだとか。
ですから、斉明天皇陵ではないかと言われている古墳も近くにあります。
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ここが発見された時の現地見学会にも行きたかったのですが、残念ながらその日は行けなかったので、近くにおられた関係者の方に質問をしてみました。
管理人(以下、管)「斉明天皇と間人皇女と大田皇女は同じ時期に埋葬されたのですか」
関係者さん(以下、関) 「ほぼ同じ時期と思っていいと思います」
管「亡くなられたのも同じ時期ですか」
関「斉明天皇の方は早くて、建皇子という孫と一緒に、別の所に葬られていましたが、斉明天皇だけ改葬して間人皇女とここに合葬され、その次に亡くなった大田皇女がここに葬られました」
管「改葬って、当時は火葬がないのですが、どうやって行うのですか?」
関「夾紵棺に入っていますので、あれは腐らず臭いも漏れませんので比較的動きやすいです。ただ石棺になりますとわからないです」
管「では、こちらの方に斉明天皇は移されたと?」
関「最終的にここではないかとも考えられています」
管「では、元の場所はどうなるのですか? 他の天皇でもここにあったモノがこっちに移った時に空っぽになった墓はどうなりますか?」
関「整理される場合もありますが、基本的には荒墓となって放置される場合があります」
管「例えば、斉明天皇陵は高取にあるのではないか、こっちではないかと揉めていますが、向こうに一度移して、こっちにまた埋葬したなどで伝承を残しているとかはありますか」
関「あの事情は、地名を基に決めているので、そのような事はないです」
答えにくい質問もしましたが、丁寧に教えて下さりありがたかったです。
そしていよいよ越塚御門古墳へ…
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古墳自体は盗掘に遭っていて石棺の蓋は壊され、副葬品も遺体も無かったそうですが、石棺に続く見事に敷き詰められている石や、石棺自身の姿にも建造者の想いが見える気がしました。
この古墳を建造したのは、大田皇女の父である天智天皇だったそうです。
弟の大海人皇子に二人の娘を嫁がせた天智天皇が、大津に遷都する前に亡くなった娘の為にこの古墳を作り、斉明天皇・間人皇女も一緒にここに葬ることで一族の女性に囲まれて寂しくなく眠れるという親心が感じられます。
“大田皇女の墓から斉明天皇陵を見るとこれほど近い”
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大海人皇子との間に生まれた大津皇子が、謀反の罪で殺害される悲劇的な最期を考えると、どうしても不幸が付き纏うイメージが残る大田皇女ですが、せめて父親の愛情が感じられる墓を見れたのはホッとしました。
先ほども書きました通り、この古墳を作った後に、天智天皇は大津への遷都を行います。娘や母を置いて行く天智天皇の胸中はいかほどの物だったのでしょうか?
そこまでして遷都した大津京での生活に、ここはどのように関わってくるのでしょうか?
滋賀県民の歴史から見る越塚御門古墳は、そんな風にも見てみたくなりました。
目的は新しく発見された「越塚御門古墳」の現地見学です。
新聞で『大田皇女の墓か?』と発表されていた新発見の古墳でした。
現地見学が始まるとされていた朝10時には既に長蛇の列ができていました。
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しばらく並ぶと、やっと見学できる場所に行けました。
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今回発見された越塚御門古墳に埋葬されているのは大田皇女という人物だそうです。その決め手は、斉明天皇と間人皇女の合葬された古墳が見つかっていて、この二人と一緒に大田皇女を埋葬した記録が『日本書紀』に記載されていたからなのだとか。
ですから、斉明天皇陵ではないかと言われている古墳も近くにあります。
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ここが発見された時の現地見学会にも行きたかったのですが、残念ながらその日は行けなかったので、近くにおられた関係者の方に質問をしてみました。
管理人(以下、管)「斉明天皇と間人皇女と大田皇女は同じ時期に埋葬されたのですか」
関係者さん(以下、関) 「ほぼ同じ時期と思っていいと思います」
管「亡くなられたのも同じ時期ですか」
関「斉明天皇の方は早くて、建皇子という孫と一緒に、別の所に葬られていましたが、斉明天皇だけ改葬して間人皇女とここに合葬され、その次に亡くなった大田皇女がここに葬られました」
管「改葬って、当時は火葬がないのですが、どうやって行うのですか?」
関「夾紵棺に入っていますので、あれは腐らず臭いも漏れませんので比較的動きやすいです。ただ石棺になりますとわからないです」
管「では、こちらの方に斉明天皇は移されたと?」
関「最終的にここではないかとも考えられています」
管「では、元の場所はどうなるのですか? 他の天皇でもここにあったモノがこっちに移った時に空っぽになった墓はどうなりますか?」
関「整理される場合もありますが、基本的には荒墓となって放置される場合があります」
管「例えば、斉明天皇陵は高取にあるのではないか、こっちではないかと揉めていますが、向こうに一度移して、こっちにまた埋葬したなどで伝承を残しているとかはありますか」
関「あの事情は、地名を基に決めているので、そのような事はないです」
答えにくい質問もしましたが、丁寧に教えて下さりありがたかったです。
そしていよいよ越塚御門古墳へ…
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古墳自体は盗掘に遭っていて石棺の蓋は壊され、副葬品も遺体も無かったそうですが、石棺に続く見事に敷き詰められている石や、石棺自身の姿にも建造者の想いが見える気がしました。
この古墳を建造したのは、大田皇女の父である天智天皇だったそうです。
弟の大海人皇子に二人の娘を嫁がせた天智天皇が、大津に遷都する前に亡くなった娘の為にこの古墳を作り、斉明天皇・間人皇女も一緒にここに葬ることで一族の女性に囲まれて寂しくなく眠れるという親心が感じられます。
“大田皇女の墓から斉明天皇陵を見るとこれほど近い”
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大海人皇子との間に生まれた大津皇子が、謀反の罪で殺害される悲劇的な最期を考えると、どうしても不幸が付き纏うイメージが残る大田皇女ですが、せめて父親の愛情が感じられる墓を見れたのはホッとしました。
先ほども書きました通り、この古墳を作った後に、天智天皇は大津への遷都を行います。娘や母を置いて行く天智天皇の胸中はいかほどの物だったのでしょうか?
そこまでして遷都した大津京での生活に、ここはどのように関わってくるのでしょうか?
滋賀県民の歴史から見る越塚御門古墳は、そんな風にも見てみたくなりました。