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『べらぼう』6話では、旗本の佐野善左衛門政言が、田沼意知に系図を贈っていたので、佐野家の話
その由来は、鎌倉時代の事。
六代執権・北条時経(元寇時の執権・北条時宗の父)は、早くに執権職を引退して出家し諸国を巡る旅をしていたのです。
同じ頃、上野国佐野での事。一人の旅の僧が雪の中で往生していた…
近くに一軒の家があったので泊めてもらう事になったのですが、そこには貧しい夫婦しか住んでいなかったのです。
外の雪が激しくなるのですが囲炉裏の火は消えかかっていたのです。主人は秘蔵の鉢の梅・松・桜の木を囲炉裏にくべて僧を凍えさせないように精一杯もてなしたのでした。
やがて貧しい主人は自分の事を語り始めます。主人の名は佐野源左衛門常世。
「叔父に所領を奪われ貧乏暮らしをしているが、合戦が起こりいざ鎌倉という時には一番にはせ参じる」と僧に語ったのです。
やがて、鎌倉から召集が来た時佐野常世は一番に駆けつけました。そこで雪の日の僧が北条時頼だった事を知たのです、そして時頼から鉢の木の礼に梅田・桜井・松井田の領地を与えられたのでした。
この話は創作なのですが謡曲『鉢木』や『いざ鎌倉』と言う話を生んで武士道の見本となったのです。
佐野善左衛門は、佐野源左衛門の子孫と称していてこれが名門の所以となったのです。
佐野家は藤原秀郷の子孫基綱が源頼朝の御家人として下野国佐野荘地頭に任ぜられて佐野姓を称しました。その孫の実綱には多くの子がいて所領を子らに分割相続させます。その中の1人重綱が田沼の地を得て田沼姓を称し佐野家の家臣となったのです。
佐野善左衛門が田沼家が家来筋であったことを主張するのはここに起因します。
佐野善左衛門が田沼家が家来筋であったことを主張するのはここに起因します。
このままでしたら田沼意次は、姓名を「藤原意次」と記さねばなりませんが、史料では「源意次」と書いています。これは田沼重綱の五代後の田沼光房に男子がいなかったため娘の嫁ぎ先から孫を養子として迎えて家を継がせました、この養子は田沼重綱(初代と同じでややこしい)と名乗りますがその父は高瀬忠重という人物で清和源氏新田家の末だったのです。この時から田沼意次の田沼家は源姓を使うことになります。
余談ですが、田沼光房は田沼家傍流であり田沼本家は戦国時代に佐野家家臣として後北条家に仕えています。
佐野善左衛門自身佐野家本家ではありませんし、田沼意次の田沼家は忍城成田氏に仕えたあと武田氏そして紀州藩へと主を変えます。
つまり、厳密に両家に主従関係を求めるなら鎌倉時代の短い期間と考えねばなりません。
佐野善左衛門が名家佐野家の系図を田沼意知に渡したのは、当時の武士が出世の足掛かりに家格を重視した風潮から「名門佐野家を利用していいぞ」との意味を含めたとされています。
しかし、すでに将軍の側用人であり老中まで出世していた田沼意次には何の意味もない物だったのです。
佐野善左衛門屋敷跡
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