彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『なぜ直虎は「おんな城主」になったのか』聴講

2016年07月02日 | 講演
歴史手習塾セミナー22『謎解き おんな城主 直虎』
一日目の『なぜ直虎は「おんな城主」になったのか』を聴講しました。
講師は『おんな城主 直虎』の時代考証を担当される小和田哲男先生です。二日間連続で小和田先生から井伊家の話が聴ける贅沢なイベントであり、今回は前売りで席が埋まったそうです。
しかも、会場は井伊直政を荼毘に付した地に建立された長松院です。本当に特別尽くしの講演になります。

お話は『寛政重修諸家譜』『井伊家伝記』『藩翰譜』を資料として井伊直虎を中心に直平から直政までの井伊家の歴史を紐解かれました。

まずは、女性が城主になるという例は立花家など西日本にみられるが東の井伊家の例もあることから全国的だった可能性があること。
大河ドラマでは「女性も活躍できる社会が戦国時代にもあった」がコンセプトかもしれない。とのことでした。

井伊家は、南北朝時代に南朝の宗良親王に味方して北朝の今川範国と戦っていた頃から今川家と対立していたのですが、直平の時に娘を今川義元に差し出し義元がこの娘を側室にした後に、関口義広に嫁したこと。
井伊家では直宗の討死、直満と直義の誅殺、桶狭間での直盛や家臣の討死など不幸が続き、直虎の許嫁の直親の波乱の人生もお話されました。

そして、直虎。
朱印ではなく黒印を使っているのは女性だが、花押を使った女性は足利義満の母くらいしか見られず珍しいとのことでした。

そして、幼少期の直政。
新野左馬助に養育されていましたが、その死後は左馬助未亡人に育てられ、松下源太郎に嫁いだ実母と共に松下家に養子に入ったとのこと。
15歳で徳川家康に仕え、井伊谷二万石の旧領回復、神君伊賀越えで孔雀の羽根で作った陣羽織を与えられる。
その直後くらいに直虎は亡くなりますが、直政が井伊家の旧領を回復した所を見れて喜んでいたのではないか?とのこと。
その後も、北条氏との大切な交渉を任されるなど、家康の信任は厚かったとのことでした。


講演後の質疑応答で、井伊直宗は実在の人物なのかを訊ねました。
直宗が出した書状などの資料は一切無く、直宗が生きていた頃から直盛が活躍しているために、何とも言えませんが、系図などには必ず書かれている。
とのお答えでした。


会場 彦根市 長松院
コメント
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