王様の耳はロバの耳

横浜在住の偏屈爺が世の出来事、時折の事件、日々の話、読書や映画等に感想をもらし心の憂さを晴らす場所です

「童話 二宮金次郎の一生」を読む

2007-08-19 06:25:21 | 本を読む
友人が夏休み前に森実与子著「童話 二宮金次郎の一生」という小冊子を送ってくれました。 友人と森さんが知り合いの為、おすそ分けに与った様な訳です。

A5版62頁の小冊子です。童話という割には挿絵は一話に一つ時に加えて金次郎の銅像写真が入る程度で、かなりの漢字が使われています(勿論漢字にはルビが振ってありますが)。小学校中学年向けですかね。

さて金次郎といえば校庭にあった「薪を背負い本を読んでいる髷姿の子供の銅像」
いまでは「篤農家」なんて良く判らない言葉で記憶しています。何をされた方なのでしょうか?
童話は編年体です。二宮金次郎は1787年(明治維新まで80年)小田原市栢山(かやま)でかなり裕福な百姓家に生まれました。しかし5歳の時台風に襲われ田畑は全滅。 父は無理がたたり病気がちになります。14歳の時父が亡くなり16歳の時には母も亡くなります。銅像はこの頃の必死に働く姿を現しているのでしょう。

兄弟三人は離散しますが24歳の時には父の田畑を取り戻し一町四反の百姓になっていました。
その後も奉公先で財政再建に取り組むなど広く知れ渡り小田原藩主大久保忠真(ただざね)公の耳に入りました。公は何とか藩の財政再建を金次郎に任せたいと思いましたが家臣の反対で実現できません。「百姓身分の者に武家が指揮命令させるなど誇りが許さない」という訳です

それでも公は分家の宇津家4000石桜町領(栃木県二宮町と真岡市の一部)の再建を頼む事にしました。
120年前の元禄期には百姓家433軒が今は156軒に減り、人口は1915人が749人へと60%も減少しているのです。米の取れ高も3100俵から800俵へと減っています

有能な家臣を小田原から送ってもなんともしがたい所まできていました。
再三の要請に金次郎も断りきれなく、現地視察の上、引き受けをきめるとして35歳(1821年8月に現地に出向きます。

さて金次郎は視察の結果を大久保公の前で披露します
「宇津家の石高は4000石ですが、この十年間桜町領の米の取れ高は平均936石でした。復興実現まで、宇津家は900石の旗本と考えれば良いのです。痩せた土地なので上手くいっても2000俵が限度でしょう」
大久保公は答えます。
「任せる。宇津家の復興までは900石、復興後は2000石とうい限度をしっかり守らせよう」

百姓がやりがいを持って安心して働ける環境つくりが金次郎の目標でした。その為大久保公から年貢の引き下げを取り付けたのです

この為政者と財政再建者の取り分の決め事を森は〝分度(ぶんど)〟と呼んでいます

かくして分度により翌年1822年3月桜町領再建の10年計画が決定します。
小田原藩より藩士並みの身分を与えられ23年には家族共々下野の国桜町に移住します。

現地では身長185センチ、体重95キロの色黒で大きな駕体と大声で多くの百姓の反感と役人の非協力を乗り越えてゆきます。

計画二年目には年貢米の分度1005俵に対し500俵も上回りました。
金次郎はこの内300俵を「備蓄米」として残し200俵を売却、田畑の整備や借財の返済にあてました。
3年目は不作で1005俵を僅かに上回るだけ、4年目はあまりの始末ぶりに百姓の不満や下役の不平から始まる訴訟などありましたが、豊作で1000俵、翌年には1020俵の余剰米が生まれました。この時期全国で百姓一揆が起きている中で稀有なことです。

爺注:
童話の中からは宇津家の900石の分度と年貢として1005俵の関係がはっきりしません。 一石は180キログラム、一俵が60キログラムとすると宇津家は俵換算で2700キロ俵、その内年貢が1005俵 つまり四公六民なのでしょうか? この辺りが良くわかりません

さて変わらず繰り返す村民の反感と役人の抵抗を処理して天保2年(1831年)金次郎45歳になりました。復興事業開始から10年(爺注:8年と思うが)成果は大いに上がりました。正月大久保公の前で金次郎は経過報告をします
金次郎は藩公より「お前のやり方は論語にある以徳報徳である」と激励され引き続き復興の任に当たる様命じられます。

こうして天保3年(1832年)に第二次復興計画が始まります。
しかし時代は「天保の大飢饉」にあたり日本中では餓死者が続出しました。
桜町領も例外ではありませんでした。
ここで金次郎の「篤農家」或いは「農政家」としての凄みは天候不順を数年規模と見極め、天保4年には寒さに強いいも、大根、かぶなどを作らせ、翌年から3年は寒さに強いヒエを作ることを命じあわせ畑の税を免じました。
天保4年と7年の大飢饉を桜町領は3300俵の備蓄米により飢饉や餓死とは無縁の生活を送ることが出来ました。

この間の取り組みは広く近隣に知られるところとなりました。
彼の手法を取り入れ再建に成功したところ役人が百姓の下目付けないと失敗した所、最後は日光神領の開発を手がけ3年目の1856年「御普請役」という微禄ですが幕臣に取り立てられますが間もなく70歳で亡くなりました。
神領の開発は家族や門弟に引き継がれ30年計画を半分の15年で達成しました。
門弟達は金次郎のやり方の改革を報徳社と名付け広めました。
この冊子も社団法人大日本報徳社によるものです
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