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レイバーコラム「時事寸評」第18回~ソチ五輪とウクライナ動乱、そしてチェルノブイリ

2014-03-01 22:44:59 | 原発問題/一般
(この記事は、当ブログ管理人がレイバーネット日本に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 2週間にわたったソチ五輪が終わった。日本は冬季五輪として過去2番目に多い8個のメダルを獲得。中でも40代のベテラン、葛西紀明選手の活躍が目立った。彼の郷里の北海道では「ソチは葛西のための五輪だった」との評価もあるくらいだ。メダル獲得がベテランと若手に偏り、(メダル獲得だけを「結果」と見るのであれば)最も期待の高かった働き盛りの中堅世代が結果を出せなかった今回の五輪は、盛りを過ぎても居座って引退しない高齢世代と、新しい発想で伸び伸びしている若手との間で中堅世代が苦闘する実社会の反映のようだ。

 五輪期間中、最も心配されたテロは幸いにして起きなかったが、隣国ウクライナでは市民のデモが武装勢力の介入によって衝突に発展。死者を出す争乱となり、ヤヌコビッチ政権が崩壊する事態となった。日本のメディアでは、日米支配層の意向を反映して「EU(欧州連合)かロシアかを巡る綱引き」「親露、反欧米のヤヌコビッチ政権から新欧米の野党への政権委譲は好ましい変化」との報道が目立つが、衛星放送を通じて伝わってくる外国メディアの報道とはかなり様相が違っている(例えば、英BBC放送は「ロシアから欧米に近づくことでこの国が良くなるとは思えず、戸惑っている」との市民の声を伝えている)。例によって、一面的な国内メディアの報道だけに頼ったのでは情勢判断を誤りそうな気配が漂ってきた。日本のメディアがウクライナの地理、歴史をきちんと知ってこれらの報道をしているとはとても思えない。

 ●五輪期間中だからこそ

 そもそも、ソチ五輪期間中にウクライナでこのような騒動が起きていることに対し、多くの日本人は「何もこの時期でなくても」「なんでこんな時期に騒動が起きるのかわからない」という感想を抱いただろうと思う。だが、そのような感想を抱いている人たちは、この地域の地理をどれだけご存じだろうか。



 筆者が地図を示すので見てほしい。五輪が開催されたソチはウクライナ国境に近い場所にあり、ウクライナの首都・キエフとは直線距離で約800kmしか離れていない場所にある。東京を起点にすれば、西は広島県福山市、北は津軽海峡を望む青森県・竜飛岬とほぼ同じ距離だ。旧ソ連時代は、世界の大陸面積の6分の1を1国だけで占めると言われた。そのソ連の広大な国土の大半を引き継いだロシアにとって、800kmは文字通り目と鼻の先である。ヤヌコビッチ政権に反感を抱くウクライナ市民が、「五輪期間中に、開催地の目と鼻の先で騒動を起こせば世界に注目され、ヤヌコビッチを支援するプーチン政権のメンツも潰すことができる」と最大級のアピール効果を狙ったとしても不思議なことではない。誤解を恐れず言えば、この騒動から政変に至る一連の出来事は五輪期間中「だからこそ」起きたのだといえよう。

 ●ロシアと欧米のはざまで

 ウクライナが、大国ロシアとヨーロッパのはざまで分裂の火種を抱えながら翻弄されてきたことは日本メディアの報道の通りだと思う。第二の都市、ハルキウ(ハリコフ)を擁する東部は19世紀に工業化が進み、重工業が急速に発展した。1917年のロシア革命の際、当時のボルシェヴィキの方針は「都市の労働者を組織して農村へ進撃すること」であったから、工業化したハリコフはボルシェヴィキが革命の拠点にするには好都合の場所だった。

 第二次大戦における独ソ戦(旧ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれた)では、ソ連軍とナチス・ドイツ軍によって第1次から第4次まで、4回のハリコフ攻防戦が戦われた。1941年には、ソ連軍はハリコフを失い、ボルガ川付近まで大幅な退却を余儀なくされたが、翌42年になると、戦線を広げすぎて消耗したドイツ軍にソ連軍が反攻を開始。ドイツ軍を壊滅させ、ソ連の勝利に向けた転機となる有名なスターリングラード(現・ボルゴグラード)戦を経て、ハリコフもソ連が奪回に成功している。

 ●スターリンによる「第1次ウクライナ懲罰」~壮絶な負の歴史

 一方、ウクライナ南部と西部は、歴史的にも中欧との意識が強く、ロシア革命以前からヨーロッパとの強い結びつきがあった。世界的にも有数の穀倉地帯として、「ウクライナで枯れ枝を地面に突き刺せばそのまま育つ」と言われるほど肥沃な土地に恵まれた。だが、その肥沃な土地を背景にした豊かなウクライナ農業も、硬直した官僚命令式社会主義の下では、単なる穀物の徴発対象としかみなされなかった。

 ソ連末期、ゴルバチョフ政権による「ペレストロイカ」政策により情報公開が進んだ影響を受け、それまでひた隠しにされてきたスターリンによる1931~32年の農業の強制集団化の恐るべき実態が明るみに出た。それによれば、農民には自分が生活していくために最低限の穀物しか手元に置くことが許されず、それ以外はすべて政府に供出させられた。おまけに、現実には対応不可能なほどの厳しいノルマも課せられたという。

 いくら社会主義が人類にとっての理想を掲げていたとしても、「頑張っても頑張らなくても自分の手元に残せる穀物の量が変わらない」のであれば、農民がモチベーションを維持することは難しくなる(歴史に仮定は許されないが、もしこの当時のソ連政府の政策が「収量の○%を供出」というように供出量を割合で定めるものであったり、徴発の代わりに買い付けとして農民に対し穀物代金が支払われる制度であったりすれば事態は全く違っただろう)。ウクライナ農民にとって、肥沃な土地に恵まれ、農地面積あたりでは他地域より多くの生産をあげている自分たちが自分の生活に必要な最低限の量しか穀物を残せない悪平等的制度に対する反感は他の地域より大きかったと思われる。当然の結果として、農民は穀物を隠し供出を渋るようになった。

 これに対し、スターリンは1932年秋になって、極めて非人道的な決定を下す。穀物の供出が特に遅れていたウクライナと北コーカサス地方の農民を「非協力的」として、彼らから「全食糧を徴発する」と決めたのだ。恐るべきことに、この「全食糧」には、農民が自家消費する食糧も含まれていた。部分的に自由市場を認めた「ネップ」(新経済政策)もすでに終了し、闇市場、自由市場も存在していなかったソ連で、自家消費分を含む全食糧を取り上げられることは、農民にとって「死刑宣告」を意味する。ウクライナだけでこの年秋からの1年間で700万人が餓死、住民が全滅して地図から消えた村さえあったという。

 農業強制集団化の過程で起きたスターリンによる「懲罰的飢餓政策」の死者は、1937~38年の「大粛清」死者をも上回るといわれる。旧ソ連ではこの飢餓政策、そして飢餓の歴史に触れること自体がタブーであり、触れれば逮捕の恐れもあるとされたが、ペレストロイカによる情報公開と言論自由化の中で、毎年11月4日を「1932~33年の飢餓の犠牲者の霊を慰める日」とすることが1990年、ウクライナで初めて決められた。ソ連国内で、文芸雑誌「ノーヴィーミール」(「新世界」の意)によってその飢餓政策の全貌が初めて明らかにされたのは1989年のことだ。

 ●「第2次ウクライナ懲罰」としてのチェルノブイリ

 スターリンによる飢餓政策が「第1次ウクライナ懲罰」であるとすれば、「第2次ウクライナ懲罰」に当たるのはなんといってもチェルノブイリ原発事故だろう。現在でも、原発は100%のフル出力で運転するか、全く停止するかのどちらかしかできないが、事故を起こしたチェルノブイリ4号炉は、通常運転中に出力の調整が可能かどうか試すという、極めて危険な「賭け」の末に爆発、前代未聞の大惨事となった。

 事故当時のチェルノブイリ原発の正式名称が「ウラジミール・イリイチ・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所」であったことは日本でもあまり知られていないが、その名称の由来は「共産主義とはソビエトの権力と全国の電化である」というレーニンの言葉にあるという。ソ連崩壊後、「ウラジミール・イリイチ・レーニン共産主義記念」が名称から外され、単に「チェルノブイリ原子力発電所」と呼ばれるようになった。1986年4月に起きた事故では、折からの南風に乗って、北に位置する隣国ベラルーシ(旧白ロシア)のほうが激しい放射能汚染に見舞われたが、ウクライナも北部の大部分が汚染を受けた。首都キエフの汚染は、福島第1原発事故による東京都内の汚染とほぼ同程度とみられている。早川由紀夫・群馬大教授が作成した福島とチェルノブイリの放射能汚染の比較地図によれば、放射性セシウム134+137の合計で「37000~185000Bq/m2」の地域がキエフ近くにも多くある(日本で「原発事故子ども・被災者支援法」のモデルとなったチェルノブイリ法では、放射性セシウムによる汚染が185000Bq/m2を超えれば希望者に移住の権利が与えられた)。福島県内を初め、首都圏でも東京都東部や千葉県を中心にこの程度の汚染は全く珍しくない。

 ウクライナ科学アカデミーのイワン・ゴドレフスキー氏らの調査報告書「ウクライナ・ルギヌイ地区住民の健康状態」によれば、ウクライナ・ルギヌイ地区では事故から5年後の1991年以降、健康被害が増えており、甲状腺疾患全体では人口1000人あたり60人にも達している。「規制値を超える体内セシウム137量を持つ人の割合」は、事故8年後の1994年に急増しており、ゴドレフスキー氏らはその理由を「野生のキノコ・イチゴの摂取量がこの年に急増したこと」であるとしている。内部被曝が環境中の放射性物質の量よりも生活習慣に大きく依存していることを示唆しており、福島第1原発事故以降の日本の市民にもいえることだが、内部被曝への警戒を怠ることこそが最も危険だということを示している。

 ●ウクライナは今後どこへ?

 福島第1原発事故が起きるまで、筆者にとってウクライナは「遠くて遠い国」だった。だが筆者自身が事故当時福島県に住み、間近で原発事故の被害を受ける中で、ウクライナやベラルーシに対し、「遠くて近い国」として急速に親近感を抱くようになった。ウクライナやベラルーシがチェルノブイリ後の四半世紀で蓄積してきた多くの経験は、近い将来、日本の市民を助けることになるだろう。

 EUとロシアが虚々実々の政治的駆け引きを続ける中で、ウクライナが今後どこへ向かうか予測するのは難しい。日本のメディアはウクライナに新欧米政権ができるとして歓迎ムード一色だが、冒頭に紹介したBBC放送内での市民のコメントが示すように、ウクライナ市民は歓迎一色ではない。

 農業地帯の西部・南部がEU編入を求め、工業地帯の東部・北部がロシアとの協調を望んでいるのは、前述したような歴史的経緯が大きく影響していると筆者は考えている。工業地帯としてロシア社会主義革命のウクライナにおける根拠地となり、「革命に貢献」した東部・北部に対し、農業地帯として社会主義政権から「征服」対象とされ、スターリン時代には穀物供出に非協力的として意図的な飢餓政策の刃が向けられた西部・南部。放射能汚染による被害は工業製品よりも農産物に大きく表れる(工業製品は放射能汚染されていても「口に入れるわけではない」からある程度割り切ることもできる)ため、チェルノブイリ事故の政治的「懲罰」としての効果も西部・南部でより大きなものとなった。こうした歴史が繰り返されれば、「ソ連時代は迫害されるだけで何もいいことがなかった」という感情が西部・南部の住民に芽生え、今回の混乱を機にロシアから離れようとする遠心力として機能するのは不思議なことではない。

 新欧米の野党が政権を担った場合、ヤヌコビッチ氏の政敵であり、野党「祖国」の指導者であったユリア・ティモシェンコ氏が首相に返り咲く可能性がある。この人物は、親露政権が倒れ、新欧米政権に変わった2004年の「オレンジ革命」の象徴としてもてはやされたが、ソ連崩壊に乗じてガス会社の利権に関与し、莫大な富を築いたとも言われており、お世辞にも潔白とはいえない。「腐敗したヤヌコビッチ強権政治」から「腐敗したティモシェンコ新自由主義政治」に変わることが市民に利益をもたらすとは思えない。新欧米政権の下で格差が拡大し、数年後か数十年後に「いま振り返れば、経済格差が少なかっただけヤヌコビッチ時代のほうがましだった」などと総括されることにもなりかねない。

 日本としては、ウクライナの市民が自分で決めることであり、当面、静観すべきだろう。日本国内ではあまり報道されていないが、ソチ五輪と前後して日本とロシアの関係は比較的安定的に推移している。原発事故を受けて日本のエネルギー危機を感じ取ったのか、サハリン~北海道間に天然ガスのパイプラインを通すよう求める提案のほか、サハリンから北海道に電力線を通し、ロシアから電力供給をしてもよいとの提案もあり、北海道では道庁に勉強会が設けられる方向だという。サハリンのアイスホッケーチームから北海道のチームに「親善試合」の申し入れがあるなど、民間交流も活発になってきている。

 こうしたロシアとの関係に配慮しながら、原発事故の被害の克服に取り組んできた「先達」として、ウクライナ、ベラルーシとの交流を進めていくことも必要だ。日本、ウクライナ、ベラルーシの市民が手を携えて、国際原子力ムラと闘っていくことが、いま最も求められる課題である。

<参考資料・文献>
 本稿執筆に当たっては、文中に紹介したイワン・ゴドレフスキー氏らによるチェルノブイリ健康被害の調査報告書「ウクライナ・ルギヌイ地区住民の健康状態」のほか、「ソ連経済の歴史的転換はなるか」(セルゲイ・ブラギンスキー、ヴィタリー・シュヴィドコー共著、講談社現代新書、1991年)を参考にしました。

(黒鉄好・2014年3月1日)

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