人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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【JR尼崎事故】JR西日本歴代3社長へ、27日、いよいよ高裁判決

2015-03-25 23:31:20 | 鉄道・公共交通/安全問題
乗客ら107人が死亡した2005年のJR福知山線脱線事故をめぐって、検察審査会による2度の起訴相当議決を受け強制起訴とされた後、1審・神戸地裁で無罪とされた井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛のJR西日本歴代3社長に対する控訴審判決が、いよいよ27日午後2時から、大阪高裁(第201号法廷)で言い渡される。

1審の無罪判決後、遺族のほとんどが控訴を希望したことから、検察官役の指定弁護士が控訴した。大阪高裁での実質審理は、昨年12月の被害者による意見陳述1回が行われたのみ。遺族らが希望した被害者参加制度の適用も見送られるなど、訴訟指揮も良いとは言えなかった。下級審判決を変更する際に開かれる弁論も開催されず、事実上、1審の無罪判決を踏襲するとみられる。

裁判所は、この間、一貫して事故の具体的な予見可能性を否定し、速度照査型ATSの設置を命じなかったことが過失とは言えない、としてきた。福知山線事故以前にJR函館本線で起きた貨物列車の転覆脱線についても、予見可能性を検討すべき事例とは言えないとしてきた。だがこの判決は間違っている。列車の重量や車種に関わらず、一定の条件を満たす場合(カーブでの遠心力と重心からの重力の合力を示す線が車輪より外側に出た場合)に転覆脱線するということは、すでに脱線理論として確立しているのだ。神戸地裁の判決は、この理論を無視または否定するものであり、きわめて非科学的なものである。

10万人を超える労働者の大量解雇とともに「発車」した殺人JR体制は、四半世紀が過ぎた今なお死屍累々だ。安全が完全崩壊した北海道、採算も環境対策も度外視したリニア建設へ向けて暴走するJR東海、経営安定基金を飲み込んだまま上場へとひた走る九州。北陸新幹線の華々しい開業の影でずたずたに引き裂かれた在来線の鉄道ネットワーク。

東日本大震災の津波で大きく被災した山田線沿岸部(宮古~釜石間)はついにJRとしての復旧を見ないまま、今年2月、三陸鉄道への売り渡しが決まった。JRが復旧費を全額負担し、復旧させた上で地元に拠出する交付金は当初、5億しか提示されなかったが、地元自治体の粘りで30億まで引き上げられた。国鉄再建法による特定地方交通線の第三セクター鉄道化の際、国が送った転換交付金は営業キロ1kmあたり3000万円が上限だったから、宮古~釜石間の営業キロ(55.4km)に当てはめれば16.6億円相当ということを考えると、国鉄再建法による赤字路線切り捨てのときに比べれば山田線沿線自治体は倍近い額を確保したことになる。しかし、転換交付金を送られた第三セクター鉄道でさえ、すでに4線(北海道ちほく高原鉄道、神岡鉄道、三木鉄道、高千穂鉄道)が赤字や災害を理由に消えている(この他、のと鉄道も廃止されたが、これは厳密に言えば赤字が原因ではない)。

福知山線脱線事故は、決してこのようなJR体制と無縁ではない。これらの出来事のすべては「利益優先、安全軽視」という地下茎でつながっている。それゆえに、この3社長の裁判は、JR体制を根底から裁くものでなければならないと当ブログ、安全問題研究会は考える。

さて、安全問題研究会は、福知山線脱線事故としては関西地区で言い渡される最後の判決となる今回、大阪高裁を訪れる予定だ。地元メディアや労働組合(特にJR西日本労働組合)による関係者の大量動員が予想され、1審・神戸地裁に続き競争率10倍を超える厳しい抽選になる可能性がある。だが、法廷に入れなくてもいい。JR史上最悪の事故の判決で、司法が「井手天皇」にどのような審判を下すのか、その歴史的瞬間を目に焼き付けておきたいと思う。

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「選択肢がない」「どこに投票したらいいかわからない」~それでもあなたの責任なのです

2015-03-25 22:15:52 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2015年4月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 「国民の自業自得だ。ドイツ国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ」

 時代は第2次世界大戦末期、1945年4月。「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」との周囲からの助言を、ヒトラーはこう言って退ける。映画「ヒトラー~最期の12日間~」(2004年公開)にこんなシーンがある。この映画はその大部分が史実に基づいて作られており、ヒトラーは実際にこう言ったのだろう。やがてヒトラーは愛人エヴァ・ブラウンとともに地下壕で自殺。ベルリン市民が市内にとどまったままソ連軍突入の日を迎える。ベルリンは圧倒的なソ連軍の前に廃墟となり、5月8日、ドイツはついに連合国に降伏する。以降、1989年に「壁」が崩壊するまでベルリンは東西に分割統治され続けることになる。

 敗色濃厚となった「第三帝国」の滅亡に積極的に国民を巻き込むかのように、「自分でナチスを選んだドイツ国民の自業自得」とうそぶいたヒトラー。ドイツ国民もまた、その負の歴史と真摯に向き合いながら、ナチス戦犯を地の果てまで追いかけ、断罪し続けてきた。今年1月に死去したワイツゼッカー元西ドイツ大統領は、「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目となる」と連邦議会で演説した。今では地図から消えてしまった旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌「廃墟からの復活」には「われら兄弟団結すれば人民の敵は打ち負かされる/平和の光を輝かせよう/母親が二度と息子の死を悼まずにすむように」という一節があった。人類史上最悪のホロコーストを生んだナチスと第二次世界大戦への強烈な反省に、保守・左翼の違い、また東西ドイツの違いはなかった。

 ナチスによる戦争犯罪が語られるとき、決まって言われるのが「ドイツ国民は自分でナチスを選んだのだから責任を取るべき」論だ。大正デモクラシーの歴史を持つとはいえ、天皇主権の明治憲法の下で限定された形でしか存在していなかった市民の権利が軍部のクーデターで殺されていった日本と異なり、当時、少なくともヨーロッパでは最も民主的だといわれたワイマール憲法に基づいて、自分でナチスを選び取ったドイツ国民はその責任を免れないというのだ。

 だが、私はこれにずっと疑問を抱いてきた。先の侵略戦争も福島第1原発事故もまったく反省しない日本人よりは賢明に思えるドイツ国民が本当に自分の手でナチスを選んだのだろうか。選ばざるを得ない何らかの事情があったのではないだろうか。そう思いながら、当時のドイツ政治事情を調べていくと、興味深い事実に突き当たった。

 ●「自分で選んだ」は本当か? ~「選択肢がなかった」ドイツ国民

 以下の表は、ワイマール体制下のドイツにおいて、ベルサイユ条約(第1次大戦関係国による講和条約)が締結された1919年から、ナチスが政権に就く1933年までの連邦議会総選挙の結果を示したものである。

 社会民主党(社民党)は現在まで続く最古参政党であり、最近ではシュレーダーを首相に就けている。独立社会民主党は、社民党内で第1次世界大戦に反対した左派グループが分離してできたもので、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトらが所属したことでも知られる。共産党はナチス政権成立後、禁止・弾圧される。中央党はカトリック政党であり、政治的に中道に位置しているわけではないことに注意を要する。当時のドイツで中道政党と呼ばれる位置を占めていたのは人民党(リベラル右派)や民主党(リベラル左派)であり、民主党は「職業としての政治」「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などを著した社会学者マックス・ウェーバーが所属していたことでも知られる。国家人民党は富裕層を支持基盤として共和制反対・帝政復活を主張しており、今日では右翼政党に位置づけられる。


(出典:「現代政党学」ジョヴァンニ・サルトーリ)

 詳しく見ていこう。1919年段階で得票率18.6%だった民主党は選挙のたびに勢力を減らし続け、1933年にはついに0.9%と壊滅状態に追い込まれる。人民党も同様であり、1920年選挙(14.0%)を頂点に、1933年にはわずか1.1%の得票率に落ち込んだ。

 一方、共産党は、独立社会民主党を糾合した影響もあり1924年選挙で得票率2.0%から12.6%に躍進、その後も一貫して9.0%~16.9%の得票率を維持する。社民党は、1919年の37.9%から、翌1920年には一気に21.6%まで勢力を減らすが、その後は微増・微減を繰り返しながらも1933年の18.3%まで基本的に勢力を維持する。中央党は1919年段階での19.7%を徐々に減らしながら、固定支持層を持つ宗教政党としての特殊性のためか、1933年段階でも11.2%を維持。1924年、初めて国政に進出したナチスは、1928年までに目立った伸びは認められないが、1930年、18.3%へと一気に躍進。1932年には得票を37.4%へと倍増させ、社民党をも抑えて第1党に躍り出る。1933年選挙では単独で43.9%を獲得。ヒトラーはついに首相になった。

 もう少し分析を続けよう。社民・共産の2党を「左翼」、民主・人民の2党を「中道」、そして国家人民・ナチスの2党を「右翼」としてその勢力の変遷を見ることにする(中央党は宗教政党という特殊な立場であり、ここでの分析にそぐわないため除外する)。独立社会民主党が共産党に糾合されるとともに、ナチスが登場してヒトラー以前の勢力図が確定し、比較が容易な1924年と1933年で見ると、「左翼」は33.1%から30.6%。「右翼」は26.1%から51.9%。そして「中道」は14.9%から2.0%である。

 その後の政党結成・解党など変動が激しいため単純比較はできないが、1919年の総選挙を、同じように比較分析してみる。1920年総選挙を最後に姿を消した独立社会民主党は明確な社会主義政党だったので、これを「左翼」に含めると45.5%、「右翼」は10.3%、そして「中道」は23.0%だ。

 わかりにくくなってしまったので、最後にもう一度まとめると次のようになる。左から順に、1919年、1924年、1933年である。
 
 「左翼」…45.5%→33.1%→30.6%
 「右翼」…10.3%→26.1%→51.9%
 「中道」…23.0%→14.9%→ 2.0%

 この分析結果から確実に言えることがある。この間、ワイマール憲法という、当時としてはヨーロッパで最も民主的な憲法を持ちながら、ドイツでは一貫して過激な主張を掲げる左右両極が勢力を伸ばし続ける一方、穏健な主張を掲げる中間勢力は一貫して勢力を減らし続けたという事実である。とはいえ、左翼は1924年以降、現状維持に過ぎないから、1924年から1933年までの10年間のドイツは「右翼の伸張と中間勢力の没落」の歴史であったと言える。中間勢力から票を奪いながら、一貫して右翼が伸び続けたのである。ナチスが政権を獲得した1933年には、ついに連邦議会の8割以上を右翼と左翼で占める。当時のドイツ国民も「選択肢がなかった」のである。

 この間のドイツにおける投票率のデータがないので、ドイツ国民がどの程度「選択肢がない」政治状況にため息をついていたのかはわからない。しかし、ナチスにも共産党にも投票したくない多くの良識ある国民が棄権したことは想像に難くない。「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)は、まず選挙からの逃走によって準備されたのだ。

 すでに述べたように、右翼は1920年段階では国家人民党の15.1%のみにとどまっており、それほど大きな政治勢力だったわけではない。これを1924年のナチスの登場が一変させる。国家人民党の勢力がほとんど変わらない中での「右翼」全体の躍進は、言うまでもなくナチスの伸張による。

 右翼陣営が国家人民党だけであった時代に勢力を伸ばすことができなかった理由は、データがないため推測の域を出ないが、この政党が富裕層を支持基盤とし、帝政復活など時代錯誤の主張をしていたために、貧困層・知識層への浸透ができなかったためと考えるのが最も理にかなっている。そこにナチスが登場、カリスマ性を持ったヒトラーが繰り返すポピュリズム的プロパガンダを前に、「選択肢がない」貧困層が雪崩を打つようにナチスへと向かっていったことを、データ分析結果は示している。

 ●「第2の1933年」を迎えてしまった私たちがなすべきこと

 選挙のたびに中間勢力が衰退し、左右両極が躍進していくワイマール体制期のドイツの総選挙結果を見て、察しのいい読者の方はすでにお気づきになったであろう。選挙のたびに自民党と共産党ばかりが躍進し、民主党などの中間勢力が没落していく「どこかの国」とそっくりだということに。安倍政権の登場は自民党の圧倒的なバラマキ「アベノミクス」のせいでも、小選挙区制のせいでもない(よく小選挙区制が悪いといわれるが、自民党は選挙制度がどのように変わろうとも第1党である。小選挙区制はもともとあった第1党の優位を拡大するシステムであり、ありもしない現象を「拡大」などできるわけがない)。それはドイツの例ですでに見たように、中間勢力の没落によってもたらされているのであり、その背景には、経済的に中間層が没落し、富裕層と貧困層に二極化していく社会の反映でもある。

 残念ながら、「中道」が没落への流れを強める中で、日本もついに安倍首相の登場により「第2の1933年」を迎えてしまった。安倍首相は、戦後日本が過去、自民1党支配の下でも決して容認しなかった「初めての独裁者」であり、安倍政権の下で今進められている集団的自衛権の行使容認や、その先の「改憲」への流れは、ナチスとヒトラーがワイマール憲法の破壊を企てた当時の動きと完全に重なって見える。

 私たちは今、ドイツでいえば1933年から1939年(第2次大戦の開始)までの間にいる。ドイツと同じ歴史を再び迎えないため、私たちは何をすべきだろうか。

 過激な政治勢力に身を委ねたくないと思いながらも、「選択肢がない」と嘆き、投票所から遠のいている有権者(その多くは政治意識が高くない)に対し、「右翼に対する防波堤として中間勢力を機能させることの重要性」を説くべきだろう。何もできなくてもいいし、政策がなくてもいい。内部がバラバラでひとりひとりが別々の主張をし、混乱しているだけの「中道」政党でもヒトラーよりはましだ。彼らに一定勢力を与えることが、史上最も危険な安倍自民1強体制に風穴を開けることにつながる。

 同時に、「災害時に助けてくれる自衛隊はあってもいいけど戦争はイヤ」「農産物の価格が高いよりは安い方がいいから自由貿易に反対はしないけど、でも安全な国産の農産物が食卓の中心であってほしい」と考えているような「普通の健全な人たち」の投票先として中道リベラル勢力を育てる試みを、どんなに困難であっても続けなければならない。最終的に、日本が戦争に向かうか平和を維持できるかは、彼ら最大勢力にかかっているのだから。

 中間勢力を見殺しにし、左右両極しか選択肢のなくなったドイツ国民は「自業自得」の結果としてベルリン市街戦に巻き込まれ、多くの命を落とした。戦後も敗戦国として責任を背負い続けた。もし私たちが平和憲法を失い、再び世界の人々に「銃」を突きつけるなら、「選択肢がない」ことの結果であったとしても、日本国民は未来の歴史において断罪されるだろう。国家による戦争犯罪が「選択肢がない」ことによって免罪されるわけではないことを、ドイツの歴史は教えている。私たちは今こそ歴史に学ばなければならない。

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