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北海道ブラックアウトは戦後の電力失政の巨大なツケだ 国策民営体制を改め今、電力国有化を

2018-10-25 22:37:34 | 原発問題/一般
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2018年11月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 北海道全域を停電に追い込むきっかけとなった北海道胆振東部地震、震度7の激震から1ヶ月半が経過した。混乱状態に陥った北海道では、震度4を記録する大きめの余震が数回記録されたものの、最も揺れが大きかった厚真町では避難指示が解除され、電力不足の懸念から出されていた節電要請も解除されるなど、道民生活は表面上、落ち着きを取り戻しつつある。

 のど元過ぎれば熱さを忘れるということわざもあるが、そこはとりわけ自分たちにとって不都合な歴史的教訓は忘れることが大得意の日本国民のことだ。のど元も過ぎないうちからもう大停電などなかったかのように見える。平穏な日常生活が戻りつつあることは喜ばしいことだが、この間、大停電を引き起こした問題は何ひとつ解決されていない。

 筆者の見るところ、震度7の激震は確かに大停電の引き金を引く出来事ではあった。だが同時に賢明な本誌読者の皆さんなら当然にこのような疑問を抱かれたことだろう。「震度7は一昨年の熊本地震でも観測されたが、九州では大停電は起きなかった。東日本大震災でも太平洋沿岸の多くの発電所が被災したのに東北でも大停電は起きなかった。なぜ北海道でだけこの程度のことで大停電が発生したのだろうか」と。

 大停電以降、この問題を自身の売名や個人的利益のために利用しようと狙う愚か者たちが「大停電は泊原発が稼働していなかったせいだ」との言説を垂れ流している。だがこの論が間違っていることは、東日本大震災で全原発が停止した首都圏でも東北でも局地的停電や節電といった動きはあったものの、全域大停電は起きなかったことひとつ取ってみても明らかだ。

 本稿は、筆者自身がこのような疑問を持ち、この1ヶ月半思考を続ける中から生まれた。たどり着いた結論は「北海道大停電は、戦後70年の電力失政が蓄積した結果起きた最終的大破たん」だというものであった。同時にこの間、危機が進行してきたJR北海道の路線廃止問題と構図がそっくりであることに気づくとともに、鉄道も電力も国有化の必要性にますます確信を抱くに至った。

 この問題を単なる大停電問題に矮小化して考えてはならない。そのような矮小化は事態の本質をも見誤らせ、根本的解決を困難にする。逆に、現在の利権構造を維持するため、事態の本質に触れられたくない者たちが必死に「大停電問題への矮小化」を図っている様子もおぼろげながら見える。さらに言えば、筆者は今回の大停電が今後の日本の電力政策に与える影響は、もしかすると2011年の福島第1原発事故さえ上回ることになるかもしれないと考えている。福島第1原発事故は確かに戦後日本の転換点となるべきものであり、日本の電力政策の破たんを内外に強く印象づけた。だがそれは日本の電力政策のうちあくまで原子力の部分に限られていた。しかし今回の大停電を通じて、戦後日本の電力政策の失敗が単に原子力分野にとどまらず、他のすべての電源を含めた全面的敗北を意味するものへと、より一層深化したことを示す数々の兆候が見え始めている。筆者は、事態の本質を解明したいと考えているすべての読者のため、北海道現地から本稿を贈る。

 ●エンゲルスが150年前に提起した課題~公共財を私企業が担うことの危険性

 そもそも鉄道事業を初め、電力・ガスなどのインフラ型産業には、一般の産業とは違う特性がある。(1)独占性・非競争性(利用客は、それが気に入らないからといって他社の同種のサービスに乗り換えることができない。また事業者は、客が増えないからといって線路や送電線をはがして別の場所に移転することもできない)、(2)一般産業の場合、資産(製造設備)は商品を生み出す道具であり、商品が貨幣と交換(=売買)されて収入となるのに対し、インフラ型産業は資産(インフラ施設それ自身)を利用させた対価が収入源である、(3)固定費用が膨大で巨大な資本投下が必要――などである。

 例えば米10kgを買いに来た客に対し、在庫が5kgしかない場合、とりあえず5kgのみ販売することができる。だが電力は、発電所から100km離れた住宅で供給を待っている人々に対し、送電線が発電所から50kmの区間までしか敷設できなかったから今日は半分で我慢してください、ということはできない。送電線が半分敷設できても、その家に届いていなければ給電を行うことはできないからだ。最初から完全な状態で供給する必要があるし、電力供給できない家庭から料金を徴収するわけにいかないであろうから、初期投資を行い、電力供給を実際に始めるまで1円の売り上げも計上することができない。このため、電力などのインフラ型産業には、事業が開始される前段階で巨額の資金が必要となる。民間セクターでそれだけの巨額な資金を集めることは困難であり、だからこそインフラの建設は、最も新自由主義が貫徹している資本主義国家であっても公共事業として行われるのである。

 『生産手段や交通機関には、たとえば鉄道のように、もともと非常に大きくて、株式会社以外の資本主義的搾取形態ではやれないものが少なくない。そしてそれがなお発展して一定の段階に達すれば、この形態でも不十分になる。そこで、……大生産者たちは合同して一つのトラストをつくる。……トラストがあろうとなかろうと、資本主義社会の公の代表である国家は、結局、生産の管理を引き受けざるをえないことになる。このような国有化の必要は、まず郵便、電信、鉄道などの大規模な交通通信機関に現われる』。

 社会主義の祖フリードリヒ・エンゲルスはすでに150年近くも前、「空想より科学へ」の中でこのような考察を行っている。また、米国のノーベル賞経済学者ポール・サミュエルソンは、この問題にまったく別の角度からアプローチを試みている。道路や鉄道などの基礎的社会資本は経済学的に見て「共同消費性」を持っている。例えば、他人が自分の食料品を食べてしまうと、それだけ自分の食べられる量が減少するのに対し、道路は他人が歩いたからといって自分がそこを歩けなくなるわけではないからだ。彼は、こうした性質を持つものを公共財と位置づけ、政府による関与が必要とした。アプローチの方法は違っても、エンゲルスとサミュエルソンがまったく同じ結論にたどり着いたのである。

 北海道大停電に当たり、例えば「誰が電気のスイッチを入れたことにより停電が起きたのか」との課題が提起されたとき、皆さんはなんと答えるだろうか。「北海道内の発電量の4割を占める苫東厚真火力発電所の直下で激震が起き、破損した発電所の発電量が低下する中、みんなが一斉に飛び起きて照明やテレビのスイッチを入れたため」だと答えることはできるだろう。だが「最後に誰が電気のスイッチを入れたときに停電したのか」の検証は不可能である。このことは、電力が「共同消費性」を持っており、すなわち公共財であることの最も有力な根拠である。

 公共財が共同消費性を持つということは、すなわちその消費が不可能になった場合の影響もくまなく全体に及ぶということを意味する。電力生産量に対し、需要がわずか住宅1軒分上回ったに過ぎないものであっても、停電はその家だけがするのではなく全体に及んでしまう。このため、公共財は常に最大需要を上回る供給力を備えていなければならないのである。

 エンゲルスが約150年も前、正しく考察したように、株式会社などの私企業に公共財の運営を委ねた場合には大きな問題が発生する。株式会社などの私企業は、利益を目的として活動する存在であるからだ。私企業は費用対効果を追求し、その結果利潤が大きいほど優良であるとして市場から高い評価を受ける。1年にわずか1日しかない最大需要の日に合わせて発電所や送電線を作った場合、残り364日はこれらの施設に「遊び」が生まれることになる。だが利益を最大にすることを要求される私企業では、1年のうち364日は稼働せず、遊んでいるような設備を維持するためのコストは無駄と判定される。株主の期待に応えるため、こうした無駄なコストからまず削減が始まる。株主が許容できる程度に無駄を削減しようとすると、私企業としては、常に最大需要を下回る量の公共財しか供給を許されなくなる。普段は需要が少ないため、そうしたコスト削減の悪影響は隠されておりすぐには現れないが、いざ最大需要を迎えたときや、突発的事態が起きて供給力が極端に低下したときに、それが露見することになる。北海道での大停電もこのような経過をたどって発生したものであり、電力を民間企業に委ねた結果としての最終的破たんというのが本稿における結論である。北電にも責任はもちろんあるが、それよりもっと大きな枠組み、すなわち国の電力政策の失敗について、その責任を追及しなければならないであろう。

 なお、北電の責任に言及すると、インターネットを中心に「現場社員は懸命に復旧に努めており、むしろこの程度の期間で復旧できたことに感謝すべきである」として責任追及を求める人たちを糾弾する動きが顕著になっている。その愚かな言説からして大半がネット右翼によるものと見られるが、「現場が一生懸命頑張っているのだから批判は許さない」として権力や強者を擁護する最近の風潮を見ていると絶望的気分になる。「皇国臣民、一億総火ノ玉トシテ敵艦ヲ竹槍デ突キ刺サムト欲スル処(ところ)、是ヲ批判スルガ如キハ正(まさ)ニ非國民ノ所業ナリ」という大戦末期といったいどこが違うのか。歴史の教訓に学ぶなら、このような無意味な精神主義の先に待ち受けるのは敗北のみと言わなければならない。そして、愛国心を標榜するならず者たちこそが社会を破滅の淵に引きずり込もうとしている点でも、歴史は繰り返されようとしているように思われる。ことこの問題に限らず、日本のあらゆる面で最近、言論が精神主義化、焦土化しているように思うが、この問題については別の機会に改めて論ずることにしたい。

 ●JR北海道問題と酷似

 北海道大停電問題を主に公共財と私企業の関係から考察してきた。ここまでで読者の疑問のうち「大停電がなぜ起きたのか」については示せたように思う。だがこれではまだ半分に過ぎない。「大停電がなぜ他の地域でなく北海道だったのか」について何も答えていないからである。次にこの面を考察する。

 今回の北海道大停電問題を考察していて、ふと思ったのがJR北海道問題と酷似していることだ。(1)私企業が公共財供給の任を負わされており、供給企業(JR北海道・北海道電力)の弱体化が顕著に進行している、(2)弱体化の結果、極端なコスト削減が数十年の長期にわたって続けられた結果、公共財供給が需要に対し著しく過少に陥った、(3)これらの帰結として大需要期(JRで言えばお盆や年末年始、北電で言えば厳冬期)の供給をまかなえなくなり、混乱が常態化した、(4)それにもかかわらず、監督官庁(JRは国交省、電力は経産省)が既存の政策(JRでいえば民営化体制の維持、電力でいえば原発存続)に固執するあまり、方針転換ができない状況で道民に不利益が押しつけられている――という点で両者に大きな共通点があるのだ。加えて電力に関しては(5)自由化で競争が激しくなり、北電にただでさえ過少な設備投資のより一層の抑制を強いる一因となっている――という事情も見える。この自由化に関しては、電力事業を上下に分離して考えた場合、地域電力会社だけが発電所や送電線など「下」のコスト負担を強いられる一方、「下」を持たない新電力各社は地域電力会社が維持する「下」にフリーライド(ただ乗り)して利益を上げるという別の問題も現れている。同一の市場の下で、上下一体の事業者(地域電力会社)と上下分離の事業者(新電力各社)が不公平な競争を強いられれば、そのしわ寄せが条件不利な地域電力会社に及ぶことは当然である(この問題は経産省が進める発送電分離により、地域電力会社と新電力各社がともに発送電会社の施設を利用して売電事業を行う形になれば、一定程度整理されると思われる)。

 これらの課題は、北海道以外の地域にも共通した課題である。問題が北海道ほど顕在化していないだけで、JR各社、地域電力会社が次第に弱体化していることも全国共通の課題だ。だが、JR各社、地域電力会社の営業区域は多くが陸続きであり、東北から中国地方までのJR各社(東日本・東海・西日本の3社)や地域電力会社(東北・北陸・東京、中部・関西・中国の6社)は不利な条件があったとしても会社間共助によって影響をある程度緩和できる。だが、本州と陸続きでない北海道、四国、九州のJR3社、沖縄を加えた電力4社は他の会社が「共助」を行うためのコストが高くなりすぎることから十分な「共助」を受けられない状態にある。

 その中でも、他社からの「共助」の基盤が最も脆弱なのが北海道である。九州、四国にある道路橋は北海道になく、陸での物流は鉄道(青函トンネル)しかない。電力を本州から融通するための連系線に関しても、九州、四国と比べ、北海道と本州を結ぶ「北本連系線」の容量は増設の余地があるにもかかわらず、現状では圧倒的に少ないのである。

 こうした不利な条件が北海道には重なっている。考えれば考えるほど、今回の電力危機もJR北海道の路線の危機も、地下茎のようにつながっているということがご理解いただけるであろう。要するに両方とも、中央の地方軽視がもたらした帰結なのである。

 ●国有化で脱原発が遠のく?

 この狭い日本列島の中に、地域を分割する形で10もの電力会社と、6つもの鉄道会社が並び立つ――非効率きわまりないこうした体制が鉄道でも電力でも危機を作り出した原因だとする本稿での考察が正しいなら、エンゲルスやサミュエルソンの指摘に立ち返り、こうした公共財への政府の関与を強める方向へ、今すぐ政策の変更が必要だ。公共財では経営規模が大きいほど内部補助によって効率が上がることは過去の歴史が証明しているからである。とはいえ、会社を統合・国有化しても、別に北海道と本州が陸続きになるわけではない。だが、陸続きであることを活かした本州での効率的経営の結果、得られた利潤を本州以外とりわけ北海道での設備投資の強化に充てることが可能になる。「利潤の範囲内でしか設備投資ができない」「1年のうち1日しかない最大需要の日に合わせて最大供給力を確保するような無駄なコストはかけられない」という問題には、少なくとも利潤を目的としない公的企業体に変わることで解決の道筋が描けるだろう。

 「無限にコストをかけられる公的事業体になれば脱原発が遠のくのではないか」という懸念を抱く人もいるかもしれない。福島第1原発事故以降、電力に占める原発の比率は一時ゼロになり、今なお5%程度に過ぎない。資源小国(筆者は必ずしもそう思わないが)といわれながら日本でここまで脱原発が進んできた背景として、安全基準の強化や国際的な脱原発の潮流によって原発のコストが飛躍的に高くなったという事情を見逃すことはできない。せっかく市場原理によってコスト高の原発が淘汰され比率が下がってきたのに、採算度外視でいくらでもコストを投入できる公的事業体に変わったら、原発が理不尽に維持されるのではないかという心配は理解できないわけではない。

 だがここでもそうした心配が無用であることは事実が証明している。多くの国で電力は国有企業が担っているが、そうした国々のすべてが原発を維持しているわけではない。逆に米国は多くの民営事業者によって電力が供給されているが原発も多く立地している。脱原発という個別政策と、公共財としての電力の経営形態は別の問題として論じなければならない。

 電力国有化が実現しても、高レベル放射性廃棄物の処理や、福島第1原発の廃炉の頓挫によってそう遠くない将来、日本の原子力政策が行き詰まることは確実だ。福島第1原発事故後の7年半、日本の国土の2%が放射能汚染で失われる一方で、この間、原発でわずか5%の電力しか供給できていないという事実がそれを証明している。そのような原発を「安定電源」「クリーン」などと持ち上げ、再稼働を主張するような連中には脳神経外科への入院でも勧めておけばよかろう。

(黒鉄好・2018年10月21日)

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