安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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【管理人よりお知らせ】GW中の旅行記をアップしました。

2012-05-14 23:43:29 | 運営方針・お知らせ
管理人よりお知らせです。

もう時間が経ってしまいましたが、GW前半を利用して佐渡に旅行してきました。その際の旅行記を4月28~29日付け記事としてアップしましたので、ご覧ください。

【連休前半】野生トキの生まれた佐渡を巡る(1日目)

【連休前半】野生トキの生まれた佐渡を巡る(2日目)

※なお、このお知らせ記事はしばらくしたら消します。

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リニア・鉄道館に入館してみる

2012-05-13 23:31:15 | 鉄道・公共交通/趣味の話題
12日から大阪に行く用事があったので、帰り道に名古屋で途中下車し、以前から行ってみたかったリニア・鉄道館を訪問してみた。午後3時半頃の入館だったが、充分楽しむことができた。

やはり圧巻だったのは車両展示だ。新幹線0系、100系、300系など東海道・山陽路の歴戦の戦士たちを初め、EF58、C57。電車では165系、381系など。気動車ではキハ181、キハ82など。客車ではスハ43などが展示されている。変わり種としては、鉄道院時代に一部で活躍したものの、主流になりきれないまま終わった蒸気動車ホジ6005や、「オイラン」と俗称され、ファンに親しまれたオヤ31(建築限界測定車)もあった。

(ファンの方は先刻ご承知と思うが、当ブログはファンでない方も閲覧しているので簡単に説明しておくと、蒸気動車とは旅客車両に蒸気動力がついているもの。建築限界測定車とは、建築限界(車両側への鉄道構造物等のはみ出し限界)を走行しながら測定する事業用車両のことで、原則として新線建設かこれに匹敵する大規模な線路付け替えの際にしか走行しない大変珍しい車両である。)

このうち、現役時代に乗れないまま終わったのが165系、オヤ31も現役での活躍は見ることなく終わってしまった。特に165系は、急行「東海」としてJR化以降も東海道線東京口で長く見られた車両だけに、今から思えば乗らないで終わってしまったのは大変惜しいと思う。

旧型客車スハ43は、子どもの頃、郷里の国鉄日豊本線で1日数本だけ運転されていた客車列車に使われており、10回くらい乗った思い出がある。朝と夕方、輸送力が求められる通勤・通学時間帯にED76牽引で走っており、出入口のドアが手動だった。駅でわざと走り出すのを待ってから飛び乗っていたのが懐かしい思い出だ。SLが牽引していた非電化線区と異なり、ED76牽引では加速がよく、危うく飛び乗り損ねそうになったこともある。当時は今と違っておおらかだったので、その程度のことで注意する国鉄職員はまずいなかった。1970年代後半、客車列車が自動ドアの50系に変わってからは、飛び乗りはできなくなってしまった。

この他、リニア・鉄道館には鉄道の歴史を展示したパネルや鉄道シミュレーターのコーナーがある。シミュレーターは私の入館がすでに遅い時間だったため抽選が終わっていたが、早い時間帯であれば抽選を行い、決まった時間に当選者を掲示、当選者だけが利用できる。順番待ちで無断な時間を潰さずに済み、たとえ外れても抽選待ちの間に他の展示を見られるので楽しむことができる。いかにもJR東海が考えそうな合理的なシステムだ。

舌を巻いたのは、名古屋の1日を体験できる巨大ジオラマコーナーだ。朝から晩まで、名古屋駅を中心とした東海地方の鉄道がどのような動きをしているかを20分コースで体験できる。夜の場面ではブースの照明を暗くし、深夜時間帯になると上下の「サンライズ」がすれ違ったり、保線車両が新幹線の保線に動き出したりするなど実に細かい演出でぜひ一見の価値がある。

これが何度も繰り返し訪れる価値があるかどうかは各自の判断によると思うが、少なくとも1度は行ってみて損はない。

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テント日誌(番外編)~ついに“全原発停止”へ~歴史的記念日、子どもたちの未来のために

2012-05-06 17:19:12 | 原発問題/一般
経産省前テントひろば
2012.5.5(こどもの日) 第238日目 天気・快晴(東京:最高気温26.2度/最低気温16.0度)

「子どもとは、その社会が今後も存続してよいことを示す天からの贈り物である」

インターネット検索でも出てこないので出典は不明だが、以前、何かの本でこんな言葉を見た覚えがある。この言葉のとおりなら、いま、日本は社会存続に黄信号がともっている。「こどもの日」に合わせて総務省が4日発表した、日本の15歳未満の子どもの推計人口は1665万人で、31年連続の減少。1950年以降の統計で過去最少を更新した。総人口に占める子どもの割合はわずか13.0%。米国(19.8%)、中国(16.5%)、ドイツ(13.4%)などを下回り、最低水準という。年齢区分で見ても、12~14歳357万人、9~11歳347万人、6~8歳325万人、3~5歳321万人、0~2歳316万人と、年齢が下がるほど減少しており、これは、今後も日本では右肩下がりに人口が減少し続けることを意味する。

子どもの数がこんなにも減少してしまった原因は、言うまでもなく若者(特に女性)が苦境に立たされていることにある。この国の女性たちは、社会の意思決定から徹底的に排除され、国家・企業犯罪の被害だけを一方的に押しつけられてきた。今、沖縄でも福島でも東京でも、女性が先頭に立って激しい抗議を繰り広げている原因は単に放射能汚染だけではない。女性に差別と忍従だけを強いてきた「犠牲のシステム」の破たんを3.11が明らかにしたからである。

とはいえ3.11はそれを露見させた単なるきっかけに過ぎない。5月1日に内閣府が発表した自殺対策に関する調査結果によれば、「最近1年以内」に自殺を考えたと答えた人は20歳代で36・2%、20歳代女性に限定すると44・4%にも上った(読売新聞)。20歳代女性の半数近くがこの1年以内に死を考えたことになる。3.11があってもなくても女性たちの抗議の始まりはいずれ避け得ない歴史的必然だったと思える。若者たちをこれほどまでに絶望のどん底に突き落としている社会体制と今闘わなくていつ闘うのか?

日本に残る最後の稼働原発、泊3号機が止まる5月5日、こどもの日。空はこの歴史的記念日を祝福するかのような快晴だ。午前中から温度計の針はグングン上がり、夏日間違いなしと思わせる。デモ隊は脱水症対策が必要だ。

正午。4月17日から続けられてきたリレーハンストが終了し、最後のハンスト終了者におかゆ、子どもたちに柏餅が振る舞われる。「原発いらない福島の女たち」の椎名千恵子さんが「原発は止まったのではなく止めたのだ。そのことをみんなで確認し合おう」と挨拶した。もちろんその通りである。原子力村が危険を安全と言いくるめるようなでたらめ体質だったとしても、そのことだけで原発が止まるほど甘くないことは、この42年間一度も原発の電気が送電されない日がなかったことが証明している。彼らのでたらめ体質を暴き、この日を迎える原動力になったのは間違いなく運動の力なのだ。

「原発いらない福島の女たち」に続いてデモ出発点となる芝公園に移動する。午後2時半過ぎ、デモ隊が公園を出る。過剰警備が指摘される東京の集会・デモだが、今日は警備の人手が足りないせいか、デモ隊から警官が離れ、いなくなる時間帯もあった。福島と比べて街が混雑していることを除けば、この解放感は悪くない。

途中、右翼が街宣をしている場所もあった。相変わらず大音響でみずからの低脳ぶりをさらけ出している。警察は、騒音規制に違反しているので街宣を止めよという警告板を掲げるのみ。こんなもので規制しているつもりになっているのだから、右翼と警察は共闘していると一般市民に疑われても仕方がないし、警察への一般市民の支持も離れるに違いない。

1時間半にも及ぶデモを終えた後、小集会を開いて再びテント前に移動する。会津に伝わる庶民の踊り「かんしょ踊り」を女性中心に参加者一同で踊り、経産省を包囲する。この踊りはマスコミの注目を集めたようで、フジ、テレ朝、TBSの3社が熱心に取材していた。うちフジ、TBSは短時間だが放映もされた。やはり、文化・芸術運動は重要だ。

ここで、かんしょ踊りについて少し触れよう。かんしょとは会津地方の方言で一心不乱、無我夢中になる様子を意味する。会津地方では盆踊りとして一般的に踊られているが、江戸末期に、民衆が過酷な年貢の取り立てに抗議して踊ったのが起源だ。あまりの情熱と激しさのため江戸幕府から禁止された。

現在では「会津磐梯山」に乗せて踊るスタイルになっている。「会津磐梯山」は1934年、日本ビクターが売り出したばかりの蓄音機の販売促進のため、売れっ子作家の長田幹彦に作詞させ、芸者歌手の小唄勝太郎に歌わせたキャンペーン曲で、会津民謡「玄如節」がルーツだ。「玄如節」は歌詞が30番まである長いものだが、「会津磐梯山」のレコードが発売される時点では162番までに膨れあがった。

戦後に入ると、やはりその民衆の抵抗のパワーを恐れたのか、GHQ(連合国軍総司令部)からも禁止の憂き目に遭う。「ハイロアクション・福島原発40年実行委員会」の武藤類子さん(今日はシカゴ遠征中のため不在)によれば、「かんしょ」は権力に対する抵抗を表す踊りなので、お行儀悪く踊るほどいいのだという。民衆が「お上」に対する抵抗を踊りで表現するという意味では、いわば福島版「ええじゃないか」運動といえる。そういえば、幕末には川柳も大流行した。川柳と福島版「ええじゃないか」である「かんしょ踊り」の流行は、ひとつの社会体制が倒れる予兆かもしれない。あらためて、私たちは時代の変わり目に立っているのだという思いを強くする。

江戸末期に生まれたこの激しい踊りがその後も廃れることなく現在まで引き継がれた背景に、地元の人たちの郷土芸能保存のための努力があったことはもちろんだが、私は会津地方が置かれてきた歴史を抜きにして語ることはできないと思う。江戸幕府が倒れ明治政府へと至る時代、会津は討幕派の薩長土肥に対し、佐幕派(幕府支持派)の急先鋒として「朝敵」の汚名を着せられた。まだ10歳代の少年たちが白虎隊として組織され、その多くが戊辰戦争で散っていった。120年経った現在でも、会津には倒幕派(とりわけ旧長州藩)に対して複雑な感情が残るとされる。

明治維新後も、「朝敵」とされた会津地方はほとんど新政府の支援を受けられなかった。会津藩は青森県・下北半島に強制移住させられたが、会津の人たちはあきらめなかった。子どもたちを会津の明日を担う貴重な財産と位置づけ、学校さえなかった下北半島から全国各地の学校へ留学させた。留学先には不倶戴天の敵であったはずの旧長州藩も含まれていた。白虎隊に属しながら戦火の中を生き残った山川健次郎は、長州藩の奥平謙輔の書生となって勉強し、旧薩摩藩の黒田清隆の推薦で渡米、エール大学に留学の後、東大総長となる。どんな苦境にあっても子どもたちを財産と捉え、その未来のために何ができるか自分たちの頭で考え行動する。未来のためには子どもたちをかつての敵にさえ預ける。会津人の努力、独立独歩の精神をそこに見ることができる。

福島は今、戊辰戦争に勝るとも劣らない苦難の中にある。現在の国や佐藤福島県政に、会津藩のような長期展望、未来を見通す慧眼は備わっているだろうか。子どもたちを高汚染地域に閉じこめ避難もさせず、自主的に避難した家族への援助さえことあるごとに打ち切りを狙う佐藤県政にそうした資質があるとはとうてい思えない。

佐藤雄平知事は会津の出身だと聞く。明日を担う子どもたちを宿敵の長州藩にさえ送り出した会津の先達のように、いまこそ子どもたちを避難によって守り、明日の福島復興の担い手として育てるべきではないだろうか。私の見る限り、「朝敵」であったが故に政府の支援を受けられず、独立精神もお上への反骨精神も旺盛な会津の人たちの中にこそ、住民本位の福島復興を目指すカギがあるように思われるのだ。それに、福島県民以外にはあまり知られていないが、県内でも会津地方の放射能汚染度は東京都心並みで済んでいる。福島復興が必要なら、汚染度の低い会津地方に除染も人的資源も集中させ、きれいで安全になった会津を福島県の中心に据えることも検討の余地があると思う。

午後6時前、「泊3号機が停止作業に入ったことが確認されました」と告げられると、テント前に詰めかけた人たちから歓声が上がる。ジュースで乾杯し、各地の反原発運動を闘う仲間からのメッセージが読み上げられる。福島で毎日被曝しながら過ごしている身としては、もちろん全原発停止は嬉しいけれど、それを素直に喜ぶことができない。原発が止まっても福島の放射能汚染の状況が好転するわけではないし、子どもたちが毎日激しい被曝を続けているのだ。子どもたちをどうやって救うべきか、避難をどうやって実現すべきか。唯一、その決断ができる政治はもうずいぶん前から「全停止」しており、即効的な処方せんは誰も持ち合わせていない。刻一刻と迫る健康被害の恐怖の中で、福島県民の苦悩はますます深まっている。

そして、今日この瞬間にも、我々の不倶戴天の敵である原子力村は虎視眈々と再稼働を狙っている。今日の全原発停止はささやかな緒戦の勝利に過ぎない。これからはもっと激しく、もっと大規模な死闘が私たちを待ち受けている。もう一度繰り返しておきたいが、これは原発が人類を殺すか、人類が原発を殺すかを巡る最終戦争なのだ。どんなに血みどろになっても勝たなければならない。未来のために、子どもたちのために。

深夜、ツイッターを久しぶりに覗いてみると、「こどもの日とは、子どもたちのために何ができるかを考えて行動する大人たちの日なのかもしれない」とのつぶやきが投稿されていた。せめて私たちだけでも、明日を担う「天からの贈り物」を安心して社会に送り出せるよう、できることはなんでもしたい。

午後11時、ついに泊3号機の発電量がゼロになった。今日の記念日が歴史的なのは単に原発が止まっただけではない。平和的な手段で行動する国民ひとりひとりの政治的意思が、初めて現実の社会の政策決定に影響を与えたという意味においてこそ歴史的なのだ。

昨年9月、私は明治公園6万人集会の報告の最後にこう記した――『戦後66年を経ても閉ざされ続けた民主主義への扉。過去何度か開きかけては閉じ、また開きかけては閉じるを繰り返してきた、厚くて重い、錆び付いた扉。その扉が今日、ほんの少しだけ、開いた。「まだ希望はある」。そう思わせてくれるに十分な6万人の人波だった。もう一度、東京と福島が力を合わせて、今度はこの扉を力いっぱい開きたい』と。

今日、私たちは「厚くて重い、錆び付いた扉」を力いっぱい開くことができたと思う。体中を民主主義の風が吹き抜ける。

五月晴れの空に向かって。

高らかに、さわやかに。今こそ誓おう。

「私たちは、もう後戻りしない」と。

(文責:黒鉄好)

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日本の全原発の稼働停止を歓迎する「アボリション2000」年次総会のメッセージ

2012-05-06 16:23:02 | 原発問題/一般
(5月5日)、核兵器廃絶のために活動しているNGOの世界的ネットワーク「アボリション2000」の年次総会がウィーンで開催されています。この年次総会の参加者一同は「日本の全原発の稼働停止を歓迎するメッセージ」を先ほど採択し発表しました。全文は以下の通りです。

英語原文はこちらです。

川崎哲 2012/05/05 23:51

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日本の全原発の稼働停止を歓迎する
アボリション2000年次総会のメッセージ

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 2012年5月5日、ウィーンで集まった「アボリション2000」年次総会の参加者たちは、日本でこれまで稼働していた54基のうち最後の原子炉が本日稼働停止したことを歓迎します。

 これらの原子炉は、通常または特別な点検のために一時的に稼働が停止されたものです。

 福島の惨事がもたらした破壊的な人道上および環境上の結果にかんがみて、私たちは、原子力からの脱却を求めている日本および世界の過半数を占める人々を支持するとともに、とりわけ、日本の原発が稼働再開されることがなく、恒久的に閉鎖されることを支持します。

 日本社会がいま原子力がなくても機能しているという事実、そして他国においても原子力なしで機能し発展している社会の方が多数であるという事実は、このような危険なエネルギー源は必要でないことを示しています。とりわけ、私たちが再生可能なエネルギー源を増やしていけばなおのことです。

 原子力からの脱却はまた、核兵器拡散の可能性を閉ざし、核兵器のない世界が持続していくための条件をつくることに寄与します。

 私たちはこのメッセージを日本の政府、国会そして市民社会に対して送ります。

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【声明】総力で再稼働を阻止し、ポスト原子力社会の扉を開こう/柏崎刈羽原発反対地元3団体

2012-05-06 16:21:24 | 原発問題/一般
「原発ゼロ」にあたり、柏崎刈羽原発反対地元3団体、原発からいのちとふるさとを守る会が関係自治体、マスコミに声明を送りました。
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【声明】総力で再稼働を阻止し、ポスト原子力社会の扉を開こう

唯一国内で稼働している泊原発3 号機が5 月5 日、定期検査に入った。これで国内50 基すべての原発が停止する。しかし、ここにたどり着くまでに私たちが払った代償は、余りにも大きいと言わなければならない。

福島原発事故による県外避難者は4 月現在で6 万2 千人に及び、1 時間当たりの放射線量に関しても、浪江町井手山で98 マイクロシーベルト、双葉町山田で92 マイクロシーベルト、大熊町夫沢で144 マイクロシーベルトを記録している。大熊町は住民のおよそ95%の約1万人、双葉町と富岡町は各5千人前後と、居住人口の約7割・3割が5年以上帰れない「帰還困難区域」の住民である。朝鮮戦争による離散家族1,000 万人、パレスチナ難民480 万人など、近代は戦争やシオニズムによる「難民の世紀」でもあったが、ここに原発事故が加わることになった。故郷から切り離された人々のアイデンティティはどこへ向かうのだろうか。

原子力社会からの撤退を決めたドイツ。チェルノブイリ原発事故直後にベストセラーとなった「危険社会(新しい近代への道)」の中で、著者のウルリヒ・ベックは原発のリスクに関してこう述べている。「原子力の危険は排除するわけにはいかない。排除しえないという事態の中に、原子力時代の危険が文化や政治に対して持つ新しい形態の影響力がある」。

3・11 は日本に「新しい形態の影響力」をもたらしたのだろうか。大飯3、4 号機の再稼働をめぐる野田政権の動向や「安全性は高まっていると思う。電力の安定供給は極めて重要であり、地元の理解を求める段階に至ったことは大きな前進である」という米倉経団連会長の発言を見る限り、原子力社会を支えてきた政・官・財のトライアングルは何も変わっていない。「物神」に拘束された倫理なきあまりに貧困な時代認識のままである。彼らに新たなリスク社会の未来をゆだねるわけにはいかない。ポスト原子力社会の「新しい形態の影響力」の主人公は市民である。

一方、中越、中越沖地震を経験した私たちは、東日本大震災がもたらした「地震学の敗北」にどう向き合うべきだろうか。柏崎刈羽原発の耐震安全性評価の基礎である佐渡海盆東縁断層帯は、佐渡島南方、FD、高田沖断層との連動が新たな懸念材料として浮上し、陸域においても長岡平野西縁断層が十日町断層と連動していることが明らかになった。断層の長さは実に132 キロに及び、マグニチュード8.4 の地震が想定されている。耐震安全性評価で7 号機再循環ポンプモーターケーシングの強度は1.06 倍の耐震裕度であったが、断層が連動した場合、強度上の評価基準を超えることは確実だろう。浦底断層の真上に建つ敦賀原発の廃炉の可能性が指摘されている。真殿坂断層と無数の敷地内断層の上にある柏崎刈羽原発も同様、廃炉以外の選択肢はない。加えて、フクシマを巡る東電の対応をみた場合、世界最大の出力をもつ柏崎刈羽原発をこれ以上運転することは断じて認められない。私たちは、ひろく大衆、市民とともに、総力で再稼働を阻止し、ポスト原子力社会の扉を開く。

以上、国内原発全号機の停止を受けて「声明」を発する。

2012年5月6日
柏崎刈羽原発反対地元3団体
原発からいのちとふるさとを守る県民の会

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【管理人よりお知らせ】安全問題研究会サイト更新ほか

2012-05-04 23:16:24 | 運営方針・お知らせ
管理人よりお知らせです。

1.明日、北海道電力・泊原発3号機が定期検査のため停止します(関連記事)。これにより、明日5月5日は日本の原発50基すべてが停止する歴史的な1日となります。全原発が停止するのは日本では42年ぶりで、先進国ではイタリアなどごく一部を除いて例がありません。福島原発事故に対する国民の怒りが巨大な反対運動を生み、この歴史的な日を迎えることができたと当ブログは考えます。この間、脱原発のために共同して闘っていただいた皆さまに深い感謝を申し上げます。

なお、明日5日、経産省前テントひろばでは、全原発停止を祝う様々なイベントが開催される予定です。ぜひ皆様のご参加をお願いいたします。

2.安全問題研究会サイトを更新しました。
安全問題研究会サイトに「安全問題研究会が行った政府への要請・申し入れ」コーナーを設置し、過去の要請書の内容を掲載しました。

要請書の内容は、当ブログ等で申し入れの都度お知らせしてきましたが、安全問題研究会の過去の活動を記録に残す意味からも、また今後の申し入れ行動等の計画を立てる上でもきわめて重要と考えます。

なお、安全問題研究会では、4月29日、関越自動車道で起きた高速ツアーバス事故を受け、今後、高速バスの安全問題に関する活動を強化していく計画です。

3.カテゴリ名を一部変更しました。
当ブログのカテゴリのうち、「鉄道(安全問題)」を「鉄道・公共交通安全問題」に、「鉄道(交通政策)」を「鉄道・公共交通政策」に変更しました。関越道バス事故を受け、今後、当ブログと安全問題研究会は、活動を鉄道以外にも広げる計画にしており、それにふさわしいカテゴリ名に変更する必要が生じたためです。

今後とも、当ブログをよろしくお願いいたします。

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テント日誌(番外編)~人生初のハンストに決起~“犠牲のシステム”としてのエネルギーを考える

2012-05-03 14:13:28 | 原発問題/一般
経産省前テントひろば
2012.4.26 第229日目 天気・曇(東京:最高気温20.6度/最低気温16.5度)

前回のテント日誌(4月8日、211日目)からわずか18日しか経っていないのに、一気に暖かくなった。このテント日誌番外編には毎回、その日の最低/最高気温を記すことにしているが、今日の最低気温は前回の最高気温を上回っている。冬から一気に初夏になった感覚だ。

私の住む白河では、早いときでは11月初旬に初雪が降り、遅いときは4月中旬以降も雪が降ることがある。私が白河に住むようになってからの5年間で、一番早い初雪は11月3日、一番遅い降雪は4月21日。すなわち1年の半分は冬である。特に1~2月は最高気温が0度未満の「真冬日」が半月以上にわたって続くこともある(今年は真冬日が正月から2月半ばまで1ヶ月半も続いた)。洗濯物は凍るので冬の間、ほとんど外に干せない。原発事故のため1年中洗濯物が外に干せないという事態になっても、私たちがあまり慌てることがなかったのにはそうした事情もある。

だからこそ福島では、春の訪れがことのほか嬉しい。西日本のように、季節が進むに従って順々に花が咲いていくのと違い、福島では春の訪れとともにあらゆる花が一気に咲く。まさに百花斉放の春である。「春が来た春が来たどこに来た 山に来た里に来た野にも来た」と歌われる唱歌「春が来た」の作詞者・高野辰之は長野県の出身だが、私はここ白河に住むようになって、この歌詞を書いた高野の気持ちが初めて理解できたような気がする。

新潟ではこの冬、除雪費が過去最高を記録したという。例年にも増して雪が多く、被災地にとって試練ともいうべき長く苦しい冬だった。だが、冬来たりなば春遠からじと言われるように、どんな厳しい冬でも終わりは必ずやってくる。この社会がみずから背負い込んでしまった「核の冬」を今こそ終わらせるときなのだ。

人生で初めてハンストに立つことにした。大飯再稼働阻止のため、たったひとりでハンストを始めた中嶌哲演さんに応え、ここテントひろばでもハンストが繰り広げられている。私にとって馴染みの顔になった「原発いらない福島の女たち」も入れ替わり立ち替わり、ここを訪れている。午前10時過ぎにテントに着くと、ちょうど外国メディア向け記者会見が始まろうとしている。参加申込用紙に名前を書いていると、記入は後でいいから先に法被を着るように言われ、そのようにする。今日がちょうどチェルノブイリ事故26周年の日であることを、このとき司会者が発言するまで忘れていた。

チェルノブイリ事故が起きたとき私は高校生だった。原発について初めて考えたのもこの事故がきっかけだ。「日本にも放射能が来るかもしれないので、雨には濡れないように」と教師に言われたことを今でも覚えている。遠く離れた日本で、雨が降るたびに怯えなければいけない原発って何なのだ? と疑問を持ち、このとき反原発の政治的立場が確定した。

当時、1週間に1コマだが「国語表現」という授業があった。生徒が小論文を書いて出席番号順に発表し、他の生徒は感想を書く(原則1回の授業で発表者は1人)。今から思えば教師の手抜きとしか思えないような企画だったが、それでも表現力をつける上で格好の訓練にはなった。私に順番が回ってくる数週間前、「社会的な内容を取り上げた小論文が少ない」と担当の国語教師がぼやいているのを聞いて、それなら自分が取り上げてやろうと思った私は「原発とエネルギー」という小論文を書き、脱原発を訴えた。クラスメートからの感想の中には「電気の3割は原発で作られている。今原発を止めると、電気はどうなりますか?」というものもあった。電力問題なんて、当時の高校生ですらちゃんと議論していたのだ。

私にとっては、1960年代までの日本は原発がなくてもやっていたのだから、今後もやれるはずだという皮膚感覚のようなものもあった。件の感想の書き手にその考えを伝えると、納得したような、していないような、よくわからない表情だった。

今、原発推進・再稼働の手先として振る舞うマスコミは毎日のように「電力不足」をあおり国民を脅しているが、26年前の高校生ですら議論していたことを今になって慌てふためくとは、日本のメディアも墜ちるところまで墜ちたものだ。"The more we have,the more we want."(人は持てば持つほど、ますます欲しくなる)という英語のことわざもある。「欲望に任せていてはキリがない。“足るを知る”、足りる範囲で生活する」が電力問題に対する私の答えだ。

外国メディアとの記者会見の冒頭、福島からの参加者ということで司会者からマイクを向けられた私は福島の思いを精一杯伝えた。「福島では今、原発を動かしていいと思っている人など1人もいない。ぜひ、再稼働が狙われているすべての地域にこの福島の経験を共有してもらいたい。私は、新たな福島をどこにも生んでもらいたくない」「福島のお母さんたちは、電力が足りるとか足りないとか、そんな議論自体したくないと言っている。足りなければ再稼働するのか。家族が全員、健康で寄り添って幸せに暮らせるならロウソクでもいいというのが福島の思いだ」と発言すると、テント前の聴衆から拍手が起きた。

当然のように電力問題に対する質問もあった。経済問題をどう考えますか、という質問には「人の命も守れない経済って何ですか?」と怒りの言葉がふと、口をついた。「原発のない日本を子どもたちに残してやれるなら、私は原発ムラと刺し違えてもいい」とまで発言した。そのように思っている福島県民は少なからずいる、と私は想像している。

外国メディアとの会見は11時頃終了した。米国ウォール・ストリート・ジャーナル紙の女性記者は、以前どこかで会っているような気がするが思い出せなかった。ウォール・ストリート・ジャーナルや、英国フィナンシャル・タイムズなどの外国メディアは一切の偏見を持たず、よく取材して書いてくれている。特にフィナンシャル・タイムズの記事はネットにも日本語訳記事が掲載されているが、「作物は安全なのに……か、それとも安全など信じられないか 2つの異なる視点」や、「福島へ、それは奇妙な里帰り」等の記事は、福島に住んでいる私の目から見ても違和感なく読める。ロクな取材もせず適当に書き散らかして終わり、の日本の記者クラブメディアとは雲泥の差だ。

昼頃、日本ハンスト界の第一人者(?)、佐久間忠夫さんがやってきた。JR東日本の株主代表訴訟第2回公判が午後2時から東京地裁で開かれる。その後、根津公子さん、河原井純子さんの「日の丸・君が代」訴訟もあるので、その前にテントに立ち寄ってくれたのだ。JR株主代表訴訟には私も傍聴に行く予定にしている。午後1時半頃までテント前で佐久間さんと雑談した後、ハンストは日没まで続ける旨をテントのメンバーに伝え、テントを辞する。

JR東日本の株主代表訴訟については「地域と労働運動」誌第136号に掲載した拙稿をご覧いただきたい。午後2時から始まった第2回公判では、原告(株主)側弁護士が信濃川からの不正取水を「故意ではない」とする経営陣側の主張に証拠を挙げて反論した。経営陣側からは何らの主張も行われなかった。

この裁判で、呆れたのは経営陣側を「応援」するため、法人としての会社(JR東日本)が「補助参加人」となっていることである。会社は経営陣の失態のために根拠なく自分のカネを不当支出されたのだから、本来なら株主の側に立ち、経営陣にカネの返還を求めなければならないはずである(私は、本来なら会社は自分に損害を与えた経営陣を背任罪で告発すべきと思っている)。それを、自分のカネを不正支出した「泥棒」を弁護しているのだから話にならない。改めて企業は誰のものなのか考えさせられる。privatizationという単語は、やはり民営化などではなく、正しく「私有化、私物化」と訳すべきだ。

この裁判を通じて思うのは(先の「地域と労働運動」誌の拙稿にも記したが)、水力発電もまた地元に大きな犠牲を強いることで成り立っているということである。今、原発「代替エネルギー」の議論があちこちで行われているが、脱原発はいいとして、原子力以外のエネルギー源に問題はないのか。水力は誰かに犠牲を押しつけていないか? 火力は?

私が今回、このテント日誌のタイトルを「“犠牲のシステム”としてのエネルギーを考える」にしたのは、こうした問題意識からである。「初めにどれだけ使うかを決めて、その後に供給策を考える」のでは、無駄遣いをしたあげくに消費税増税という官僚の予算要求と同じだ。初めに消費ありき、という文化を転換しなければ悲劇を終わらせることはできない。「みんなが納得できる負担の中で、節約し、知恵を出してみんなが納得できるように使う」――これが、ポスト原発、ポスト資本主義の時代のあるべき社会の姿である。

JR東日本株主代表訴訟の報告集会に出席しているうちに日没を過ぎ、ハンストをやり遂げることができた。ハンストのために自分で作った「再稼働? 寝言は寝て言え」「福島は再稼働を絶対に認めない」の2枚のプラカードは結果的に好評だった。ハンストは苦しいものだと思っていた私の固定観念は、よい意味で覆された。ただ座っているだけで、いろんな人がやってきて、話をしていると空腹でもそんなに苦しいと思わなかった。次回はもっと日数を増やして、さらなる高みを目指してみるのもいいかな、と思っている。私が絞り出した福島の思いは、外国メディアの手によって発信され、インターネットを経由して多くの日本の市民も見ることになる。その思いが日本中の人々に伝われば、再稼働など吹き飛ぶだろう。今は未来のために、若者と子どもたちのために、死にものぐるいで頑張るときだ。

日本に残る最後の稼働原発、泊3号機が止まる5月5日はこどもの日だ。今、「原発いらない福島の女たち」の間では「5月5日、子どもたちに原発のない日本をプレゼントしよう」が合い言葉になっている。5月5日、脱原発が実現したあかつきには、ささやかに祝杯でも挙げるとしよう。

(文責:黒鉄好)

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【読者から】関越道高速バス事故に想う~人間は夜眠るようにできている

2012-05-01 21:04:41 | 鉄道・公共交通/安全問題
管理人よりお知らせです。

昨日の記事を見た読者の方から、感想が寄せられました。良い内容なので以下のとおりご紹介します。現職の東京地下鉄社員であり、管理人の判断で氏名は伏せます。

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関越道での深夜バスの事故、正しく起こるべきして起きた事故です。職場の簡単な報告をしながら論じたいと思います。

昨日の毎日新聞によると、運転手は事故前日も東京→金沢の乗務をし、事故当日は金沢→東京を乗務したとあります。つまり、行きの乗務を終えたのは深夜勤務のため事故前日ではなく、事故当日です。その日はホテルで仮眠を取り、その日のうちに帰りの乗務をしたことになります。

机上の論理では、朝、乗務を終え、夜から再び乗務ですからその間は十分な休憩を取れる時間を確保しているかのように思えます。ただ、人間の身体って、そんな電卓を弾いて答えがでるような単純なものではありません。

時間さえ確保できていれば、休憩なんて昼間取ろうが夜間取ろうが関係なし、同じだって考えているのは資本家の論理であって、労働者の論理じゃありません。人間は昼、活動して、夜、眠るようにできています。そのため、体内のホルモンには身体が深い眠りに着く深夜時間帯を狙って分泌されるものが数多くあり、深夜労働をすれば、それらホルモンの分泌が阻害されてしまいます。日中に十二分に眠ればいいじゃないかとのご指摘を受けそうですが、日中は明るさや気温、騒音など周りの環境が夜間とは大きく異なっていて、全く同じ条件で眠るとことができません。

私も朝8時50分出勤、翌朝9時20分退勤の地下鉄職員ですからよく判るのですが、明け番で家に帰っても日中はウトウトするだけで眠れないですね。たまに、他の方から「イビキをかいて寝てたよ」って言われることがありますが、イビキをかく=身体は眠っていても脳は眠っていない(これを「レム=覚醒・睡眠」といいます)ので、熟睡しているかのように思われがちですが、実際には疲労回復には繋がりません。

私なんぞ改札で毎日のように欠伸を繰り返し、ショボショボした目で勤務をこなしているのが現状なんです。もし私が今回の運転手のようにハードな乗務をこなしていたならおそらく居眠り運転をしていても全くおかしくないと思います。

余談ですが、私が以前、多くの反対を押し切るかたちで裁判をやったのも、例えどんなに給料水準が高くても、身体を休ませられなければ行き詰まってしまうからでした。決してカネの問題じゃありません。明日の安全を守るために必要な休養が欲しかっただけなんです。

当局は勿論、裁判所も訴えを棄却し、監督官庁である国土交通省も相手にしてくれませんでした。

しかし、他山の石、今回のように大事故が起きないと、人が死なないと動き出さない交通行政に怒りを覚えます。

今回の事故で犠牲となられた皆さまに哀悼の御霊を捧げます。合掌

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