先日京都にお邪魔した折、昼過ぎに着くので、
お昼ご飯をスマホで検索し 後幸町通りのお店へ、
捜しますが、そこは普通の町屋で工事中、残念。
そぐ近くに良く似た京町屋のお店がありました。
前に京野菜が置かれている「ここら屋」京都本店さん
「ここら」は京言葉の「ここらへん」からで、
ご近所という意味ですが、奈良でも結構使います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/9f/cd4daf2f47dd346ffe5ab6c4b2774ae2_s.jpg)
外国からの方が多くお見えで、2階へ上がられました。
ここまでインバウンドの影響が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6c/b5/b2b20018ede2741b9d1bd190bb4377d5_s.jpg)
ほうじ茶がポットで、すぐ出てきました。
ランチはワンプレート(980円)では、こんなものですね。
ぶらぶらと、寺町通りを上がります。
こんなところに『本能寺』が、
由来は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より
当初は本応寺、そして本能寺にと変わり、
また現在能という字を能に替えておられるのは、
五度も火災に遭い匕(火)を嫌い能の字にされたそうです。
実はこの場所は、日曜日1/31の大河ドラマで暗示されていた
「本能寺の変」の場所ではありません。
そこは四条西洞院の蛸薬師です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7c/c7/4cad7ef284074121f70e546d016336da_s.jpg)
当時の本能寺は、宮中に近くて、
守るのにも堅固な場所にあったそうです。
本能寺の変により焼け落ち、出土した鬼瓦は、
今の鬼瓦と比べ、非常に雅な印象をうけますね。
元本能寺
現本堂
現在のお寺は、秀吉によりここへ移されており、
総門の横から、日蓮さんが
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/59/4b/cbf3f3322c1ef0aab0c45923d3bfcc7d_s.jpg)
本堂では、綿掛けを掛けられた日蓮さんにご挨拶を
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/1a/16e8d09de90e8f6839aac8f0d90d6834_s.jpg)
そして信長公墓から「火伏のいちょう」を見ながら
思い出したことがあります。
信長の謀とも言われる浄土宗と日蓮宗(法華宗)の間の法論
安土宗論(1557年)にて、敗北したため、
布教の道が閉ざされてしまい、衰退した時期があります。
しかし、信長は宗論後も本能寺を始めとした法華宗の寺に
宿泊しており、不正をしていない傍証ではないでしょうか。
豊臣秀吉の時代になり、安土宗論が再検討され、
秀吉から布教を許す旨がかかれた手紙が出され、
それを京都中に知らせるため、扁額にしたお寺
『頂妙寺』が、鴨川を挟んで仁王門通りにあることです。
京都国立近代美術館へ向かう通り道に建っており、
俵屋宗達筆の牛図(重文)でも有名なお寺です。
山門から
仁王門では通常、金剛力士像ですが、運慶作と伝えられている
多聞天(向かって左)と持国天(向かって(右)がおられます。
仁王門
そして門の真ん中に、『扁額』があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/67/0c/c7de19b1c7a3c05c94d134ea62ea4df9_s.jpg)
奥の本堂前に日蓮さまのやや固いお顔とともに、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6f/1b/97b83144b0ee5f4666612aa8045d9223_s.jpg)
白梅が咲き始めておりました。
お昼ご飯をスマホで検索し 後幸町通りのお店へ、
捜しますが、そこは普通の町屋で工事中、残念。
そぐ近くに良く似た京町屋のお店がありました。
前に京野菜が置かれている「ここら屋」京都本店さん
「ここら」は京言葉の「ここらへん」からで、
ご近所という意味ですが、奈良でも結構使います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/9f/cd4daf2f47dd346ffe5ab6c4b2774ae2_s.jpg)
外国からの方が多くお見えで、2階へ上がられました。
ここまでインバウンドの影響が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6c/b5/b2b20018ede2741b9d1bd190bb4377d5_s.jpg)
ほうじ茶がポットで、すぐ出てきました。
ランチはワンプレート(980円)では、こんなものですね。
ぶらぶらと、寺町通りを上がります。
こんなところに『本能寺』が、
由来は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より
当初は本応寺、そして本能寺にと変わり、
また現在能という字を能に替えておられるのは、
五度も火災に遭い匕(火)を嫌い能の字にされたそうです。
実はこの場所は、日曜日1/31の大河ドラマで暗示されていた
「本能寺の変」の場所ではありません。
そこは四条西洞院の蛸薬師です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7c/c7/4cad7ef284074121f70e546d016336da_s.jpg)
当時の本能寺は、宮中に近くて、
守るのにも堅固な場所にあったそうです。
本能寺の変により焼け落ち、出土した鬼瓦は、
今の鬼瓦と比べ、非常に雅な印象をうけますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/53/3c/3cac7fb786dd7c5f80bf11190dbfe480_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/52/6e/3e8c07c3b5570d58eecd57ad66d9a487_s.jpg)
現在のお寺は、秀吉によりここへ移されており、
総門の横から、日蓮さんが
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/59/4b/cbf3f3322c1ef0aab0c45923d3bfcc7d_s.jpg)
本堂では、綿掛けを掛けられた日蓮さんにご挨拶を
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/1a/16e8d09de90e8f6839aac8f0d90d6834_s.jpg)
そして信長公墓から「火伏のいちょう」を見ながら
思い出したことがあります。
信長の謀とも言われる浄土宗と日蓮宗(法華宗)の間の法論
安土宗論(1557年)にて、敗北したため、
布教の道が閉ざされてしまい、衰退した時期があります。
しかし、信長は宗論後も本能寺を始めとした法華宗の寺に
宿泊しており、不正をしていない傍証ではないでしょうか。
豊臣秀吉の時代になり、安土宗論が再検討され、
秀吉から布教を許す旨がかかれた手紙が出され、
それを京都中に知らせるため、扁額にしたお寺
『頂妙寺』が、鴨川を挟んで仁王門通りにあることです。
京都国立近代美術館へ向かう通り道に建っており、
俵屋宗達筆の牛図(重文)でも有名なお寺です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7c/e1/0aca08295979a530cd9ed14927238b7b_s.jpg)
仁王門では通常、金剛力士像ですが、運慶作と伝えられている
多聞天(向かって左)と持国天(向かって(右)がおられます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7d/bd/581b2b55d48877eb3baba38a12663aa4_s.jpg)
そして門の真ん中に、『扁額』があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/67/0c/c7de19b1c7a3c05c94d134ea62ea4df9_s.jpg)
奥の本堂前に日蓮さまのやや固いお顔とともに、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6f/1b/97b83144b0ee5f4666612aa8045d9223_s.jpg)
白梅が咲き始めておりました。