語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『がんをつくる社会』

2010年02月01日 | 医療・保健・福祉・介護
 原題の「がん戦争」のほうが本書の意図を正確に伝えている。人間対がんの戦争という意味もあるが、より具体的に言えば「がんを予防あるいは抑制しようとする者」対「がんの予防措置を妨げる者」との戦いである。
 著者は科学史家であり、終始科学的なデータと科学者の意見に即して議論を進めている。科学的考察によって浮き彫りにされるのは、社会的政治的要因である。
 今や「がんの原因はほぼわかっている」と著者はいう。発がん物質の古典的な例をあげれば、煙突のすす、精錬作業からの煙、パラフィン、ウラン鉱山内部の空気、アニリン染料、X線、コールタール、アスベストなど。これらは、大気、飲料水、食料品を介して人間の体に入り込む。
 世界保健機構によれば、がん全体の二分の一は、もっとも工業化の進んだ国(世界人口の五分の一)で発生している。
 「がんはだいたい予防できる」とも著者はいう。喫煙者が禁煙すれば、肺がん発生率を下げることができる。
 だが、生活習慣や食生活の改善と異なって、環境破壊の改善は容易ではない。産業界は、がんの危険を隠蔽し、曖昧にし、逆宣伝をおこない、予防措置を先送りにしてきた。がん研究にも投資したが、それは治療に対してであり、予防に対してではなかった。
 政治もこれに加担した。その端的な例がレーガン政権である。国防費をふくらませる一方で、大企業に露骨に梃子いれした。労働安全衛生や環境に係る規制を大幅にゆるめ、これらの業務に携わる政府職員の言動を検閲したのである。本書は、一章をさいて、レーガン政権による「がんの政治学」の歪みを剔抉している。
 「がんの政治学」をはね返して本書が提言する予防対策は、21世紀の日本の対がん戦略に資するだろう。

□ロバート・N・プロクタ(平澤正夫訳)『がんをつくる社会』(共同通信社、2000)
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書評:『この一秒 極限を超えた十人の物語』

2010年02月01日 | ノンフィクション
 ノンフィクション・ノベルは、事実を追求して再構成するノンフィクションとしては徹底しない。想像力により現実から独立した虚構の世界を構築する小説としては、生の事実に寄りかかりすぎる。要するに、腰の定まらぬジャンルである。
 本書も、ヌエ的な中途半端さをまぬがれていない。
 だが、話半分に読み流せば、それなりにおもしろい。著者には人間が好き、みたいなところがあって、この思いがいたるところに滲みでているからだ。
 たとえば、「九十三点目の奇跡」。青森県の高校の弱小野球部を描く。夏の県予選大会で深浦高校は強豪とぶつかり、5回を終わった時点で、スコアはなんと93対0。なんとか10人の部員をそろえて、遊び半分の生徒をなだめつすかしつ大会出場へもっていった監督も、試合放棄を覚悟する。だが、選択を求められた選手たちは続行を決めた。スタンドから拍手と声援が湧きおこった。と同時に、それまで疲労と負けいくさで意気消沈していた選手たちに、明るく屈託のない笑顔が浮かんだ。試合は122対0で終了した。大会があけて最初の練習日に、1年生6人はふたたびグランドにやってきた。引き締まった表情で。野球のおもしろみ、スポーツの奥深さを知ったのである。
 文章はあらい。山際淳司の簡潔な切れ味はない。けれども、世の片隅で目立たずに生きる者に対する共感、ぬくもりのある眼差しがある。
 落ちこぼれにも下積みの人にも、人生の分岐点となる一瞬が訪れる。この一瞬が十の短編で描かれる。

□畠山直毅『この一秒 極限を超えた十人の物語』(日本放送出版協会、2000)
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書評:『医師はなぜ安楽死に手を貸すか』

2010年02月01日 | 医療・保健・福祉・介護
 著者は、エール大学医学部外科学教授、ガン治療専門医である。

 現代医学のおかげで人々は長生きするようになった。
 その一方では、人生の終末期に耐えがたい苦痛を味わうようになった。
 不治の病(ことにガン)のため、じわじわと苦しめられ、時として激痛さえあじわう。寝起きはままならず、排尿さえコントロールできない。
 長期間の療養のため、社会的地位はうしなわれ、人間関係は希薄になる。
 家族の精神的負担は大きく、(ことに合衆国では)医療費の負担額は膨大になる。

 のこる命が数日間あるいは数週間の場合、そのあいだに得られる喜びにくらべて、こうむる苦しみと苦痛のほうが格段に大きいと予想されることがある。こうした場合、QOL(生活の質)と尊厳を保って死を迎えたい、と願う患者がいる。
 この願いにこたえるのが、本書でいう安楽死である。

 安楽死は本人あるいは家族が行うよりも医師が行うほうが安全だ・・・・そうみる立場から、著者は、「医師の手を借りた安楽死」ができる政策を提言する。

 提言の論拠として、ガンにより亡くなった著者自身の父親をはじめとする患者たち30人の声を引き、合理的自殺に関する考察を行う。
 また、医師や国民の意見調査を援用し、医師が現実に安楽死に関わっている実態をしめす。
 さらに、1970年代に安楽死を合法化したオランダの実験について考察している。

 患者がみずから死期を定める自己決定権の保障、しかも医師による保障には、反対意見も多い。
 著者は、慎重にも、反対意見をきちんと紹介する。なかんずく「第5章 医師の懸念」「第6章 国民の懸念-悪用と危険な坂道」において、反対意見を集中的にとりあげ、併せてこれに対する著者の見方を率直につづる。

 医師が安楽死に手を貸したがらない最大の理由は、違法であることだ。
 だが、法は社会の意識とともに変化する。
 オレゴン州尊厳死法(1994年)は住民投票によって成立した。
 連邦裁判所における判例も、少しずつ容認の方向へ変わってきた。つまるところ、「患者の訴えが医師や政府を動かす」のだ。

□チャールズ・F・マッカーン(杉谷浩子訳) 『医師はなぜ安楽死に手を貸すか』(中央書院、2000)
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