祖国を離れて医学を学ぶマリエッタは、地下室に住み、屋敷の掃除、家主キンスキー氏の衣類の洗濯をして家賃の代わりとしていた。
ある日、独身のピアニスト、家主のキンスキーはマリエッタに愛の告白をする。マリエッタは拒んだ。そして告げる、政治犯として獄中にいる夫を救い出してほしい、と。
彼女が有夫だと初めて知って、キンスキーは愕然とする。
やがて、家中から高価な芸術品が次々に消えていった。
屋敷の内部が丸裸になった頃、マリエッタのもとへ夫から手紙が届いた。釈放されてロンドンへ来る、という。
マリエッタは朗報をキンスキー氏へ伝えたが、彼はちっとも驚かなかった。
4年ぶりの再会が近づくにつれ、マリエッタの動揺ははげしくなった。
夫と再会する日の前夜、マリエッタはキンスキー氏の寝床へ忍びこんだ。
「夜が明けた直後、二人は玄関の前でキキーッとタクシーがブレーキをかけて止まる音を耳にした。二人がほんのつかの間しっかり抱き合った直後、マリエッタの部屋のベルが鳴った」・・・・
*
短編集『シャンドライの恋』の表題作は、概要以上のようなストーリーである。この短編集は、ほかに10編の短編をおさめ、『三夜物語』も佳作だ。青春期のいささか身勝手な恋と、歳月をへてから再会する元恋人たちが、ソフィストケートされた筆遣いで描かれる。
ところで、表題作の原題は『マリエッタ』である。ベルナルド・ベルトリッチ監督による映画化(1998)では『シャンドライの恋』となっていて、そのタイトルに合わせて邦訳の題名も改変された。
改変は題名だけではない。小説の舞台はロンドンで、女主人公マリエッタの母国は南米だ。これに対して、映画の舞台はローマであり、女主人公の名はシャンドライであり、その母国はアフリカという設定である。また、映画ではシャンドライ(=マリエッタ)の夫は政治犯だが、小説ではこの点は特に明記されていない。政治に敏感なベルトリッチ監督らしいアクセントのつけ方だ。
小説があり、これに基づく映画がある場合、ジャンルがちがうので優劣の比較はできない。別個の作品として鑑賞するべきだ。
そう確認した上で感銘の度合いをみると、映画作品のおおくは原作ほど強い感銘を与えないような気がする(たとえば1956年の合衆国版および1965-67年のソ連版 『戦争と平和』)。
しかし、『シャンドライの恋』の場合、映画のほうが感銘の度が強いと思う。これは、映像の効果を巧みに引きだしている監督の手柄にちがいない。たとえば、手持ちカメラによる撮影だとぶれが生じるのだが、これが女主人公(タンディ・ニュートン)の動揺や陰影を言葉以上によく表現している。また、しだいに空っぽになっていく屋敷の映像によって、家主(デヴィッド・シューリス)の払った犠牲の大きさが目にみえてわかるし、それだけ彼女に思いを寄せる強さもわかる。
『シャンドライの恋』は、大作『1900年』のなかの挿話のような小品だが、ベルトリッチ監督は大作につぎこむと同じエネルギーを小品に注いでいる。電圧の高い映画である。
邦訳の題名を改変したのは、じゅうぶんに理由のあることだった。
□ジェイムズ・ラスダン(岡山徹訳)『シャンドライの恋』(角川文庫、2000)
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ある日、独身のピアニスト、家主のキンスキーはマリエッタに愛の告白をする。マリエッタは拒んだ。そして告げる、政治犯として獄中にいる夫を救い出してほしい、と。
彼女が有夫だと初めて知って、キンスキーは愕然とする。
やがて、家中から高価な芸術品が次々に消えていった。
屋敷の内部が丸裸になった頃、マリエッタのもとへ夫から手紙が届いた。釈放されてロンドンへ来る、という。
マリエッタは朗報をキンスキー氏へ伝えたが、彼はちっとも驚かなかった。
4年ぶりの再会が近づくにつれ、マリエッタの動揺ははげしくなった。
夫と再会する日の前夜、マリエッタはキンスキー氏の寝床へ忍びこんだ。
「夜が明けた直後、二人は玄関の前でキキーッとタクシーがブレーキをかけて止まる音を耳にした。二人がほんのつかの間しっかり抱き合った直後、マリエッタの部屋のベルが鳴った」・・・・
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短編集『シャンドライの恋』の表題作は、概要以上のようなストーリーである。この短編集は、ほかに10編の短編をおさめ、『三夜物語』も佳作だ。青春期のいささか身勝手な恋と、歳月をへてから再会する元恋人たちが、ソフィストケートされた筆遣いで描かれる。
ところで、表題作の原題は『マリエッタ』である。ベルナルド・ベルトリッチ監督による映画化(1998)では『シャンドライの恋』となっていて、そのタイトルに合わせて邦訳の題名も改変された。
改変は題名だけではない。小説の舞台はロンドンで、女主人公マリエッタの母国は南米だ。これに対して、映画の舞台はローマであり、女主人公の名はシャンドライであり、その母国はアフリカという設定である。また、映画ではシャンドライ(=マリエッタ)の夫は政治犯だが、小説ではこの点は特に明記されていない。政治に敏感なベルトリッチ監督らしいアクセントのつけ方だ。
小説があり、これに基づく映画がある場合、ジャンルがちがうので優劣の比較はできない。別個の作品として鑑賞するべきだ。
そう確認した上で感銘の度合いをみると、映画作品のおおくは原作ほど強い感銘を与えないような気がする(たとえば1956年の合衆国版および1965-67年のソ連版 『戦争と平和』)。
しかし、『シャンドライの恋』の場合、映画のほうが感銘の度が強いと思う。これは、映像の効果を巧みに引きだしている監督の手柄にちがいない。たとえば、手持ちカメラによる撮影だとぶれが生じるのだが、これが女主人公(タンディ・ニュートン)の動揺や陰影を言葉以上によく表現している。また、しだいに空っぽになっていく屋敷の映像によって、家主(デヴィッド・シューリス)の払った犠牲の大きさが目にみえてわかるし、それだけ彼女に思いを寄せる強さもわかる。
『シャンドライの恋』は、大作『1900年』のなかの挿話のような小品だが、ベルトリッチ監督は大作につぎこむと同じエネルギーを小品に注いでいる。電圧の高い映画である。
邦訳の題名を改変したのは、じゅうぶんに理由のあることだった。
□ジェイムズ・ラスダン(岡山徹訳)『シャンドライの恋』(角川文庫、2000)
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