語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『シャンドライの恋』

2010年02月20日 | 小説・戯曲
 祖国を離れて医学を学ぶマリエッタは、地下室に住み、屋敷の掃除、家主キンスキー氏の衣類の洗濯をして家賃の代わりとしていた。
 ある日、独身のピアニスト、家主のキンスキーはマリエッタに愛の告白をする。マリエッタは拒んだ。そして告げる、政治犯として獄中にいる夫を救い出してほしい、と。
 彼女が有夫だと初めて知って、キンスキーは愕然とする。

 やがて、家中から高価な芸術品が次々に消えていった。
 屋敷の内部が丸裸になった頃、マリエッタのもとへ夫から手紙が届いた。釈放されてロンドンへ来る、という。
 マリエッタは朗報をキンスキー氏へ伝えたが、彼はちっとも驚かなかった。
 4年ぶりの再会が近づくにつれ、マリエッタの動揺ははげしくなった。
 夫と再会する日の前夜、マリエッタはキンスキー氏の寝床へ忍びこんだ。
 「夜が明けた直後、二人は玄関の前でキキーッとタクシーがブレーキをかけて止まる音を耳にした。二人がほんのつかの間しっかり抱き合った直後、マリエッタの部屋のベルが鳴った」・・・・

   *

 短編集『シャンドライの恋』の表題作は、概要以上のようなストーリーである。この短編集は、ほかに10編の短編をおさめ、『三夜物語』も佳作だ。青春期のいささか身勝手な恋と、歳月をへてから再会する元恋人たちが、ソフィストケートされた筆遣いで描かれる。

 ところで、表題作の原題は『マリエッタ』である。ベルナルド・ベルトリッチ監督による映画化(1998)では『シャンドライの恋』となっていて、そのタイトルに合わせて邦訳の題名も改変された。
 改変は題名だけではない。小説の舞台はロンドンで、女主人公マリエッタの母国は南米だ。これに対して、映画の舞台はローマであり、女主人公の名はシャンドライであり、その母国はアフリカという設定である。また、映画ではシャンドライ(=マリエッタ)の夫は政治犯だが、小説ではこの点は特に明記されていない。政治に敏感なベルトリッチ監督らしいアクセントのつけ方だ。

 小説があり、これに基づく映画がある場合、ジャンルがちがうので優劣の比較はできない。別個の作品として鑑賞するべきだ。
 そう確認した上で感銘の度合いをみると、映画作品のおおくは原作ほど強い感銘を与えないような気がする(たとえば1956年の合衆国版および1965-67年のソ連版 『戦争と平和』)。
 しかし、『シャンドライの恋』の場合、映画のほうが感銘の度が強いと思う。これは、映像の効果を巧みに引きだしている監督の手柄にちがいない。たとえば、手持ちカメラによる撮影だとぶれが生じるのだが、これが女主人公(タンディ・ニュートン)の動揺や陰影を言葉以上によく表現している。また、しだいに空っぽになっていく屋敷の映像によって、家主(デヴィッド・シューリス)の払った犠牲の大きさが目にみえてわかるし、それだけ彼女に思いを寄せる強さもわかる。
 『シャンドライの恋』は、大作『1900年』のなかの挿話のような小品だが、ベルトリッチ監督は大作につぎこむと同じエネルギーを小品に注いでいる。電圧の高い映画である。

 邦訳の題名を改変したのは、じゅうぶんに理由のあることだった。

□ジェイムズ・ラスダン(岡山徹訳)『シャンドライの恋』(角川文庫、2000)
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書評: 『もっとも危険なゲーム』

2010年02月20日 | ミステリー・SF
 本書は、冒険小説の雄ギャビン・ライアルの代表作とされる。ライアル作品の魅力は、訳者が解説で指摘しているが、完璧な知識と技術をもつ(という設定の)プロフェッショナルが登場することだ。
 だが、解説の焼きなおしでは芸がない。別の魅力をあげよう。すなわち、会話の妙である。気のきいたセリフであり、斜にかまえた観察である。

 「全然見たことのない男であった。見たことがないという点では天使ガブリエルもそうだが、男は天使というのには少々背が低いようである」

 主人公ビル・ケアリ、飛行士の独白だ。余裕しゃくしゃくな、というより斜にかまえた態度だ。男との出会いが、もっとも危険な「ゲーム」、つまり獲物とされるきっかけとなる。
 男すなわちフレデリック・ホーマーは狩猟家で、フィンランド辺境の森に独りこもって熊を狩るのだ。
 彼を追って山小屋を訪れた妹アリスに主人公はいう。

 「私は立ち上がった。『ちょっと飛行機の手入れをやってきます。じゃ、またあとで。見知らぬ熊などに話しかけないように』」

 だれが野生の熊に話しかけるか。熊を見たら逃げろ、と正面から告げてはおもしろくない。軽くひとひねりして注意したのである。こういうサービス精神は、会話の相手を喜ばせ、読者を喜ばせる。
 物語がはじまる前から主人公が請け負っていた地質調査は、望ましい結果が出ていない。会社に報告しなければならない。

 「電話が通じると会社の重役の一人が出た。彼は自分の名前をいわなかった。カーヤの重役というだけでいいのだ。なにしろ神様の子会社のような権力をもった会社である」

 これまた主人公の独白。権威、権力を揶揄する調子がある。彼は、かって何らかのかたちで権力とすったもんだをおこし、しかもしぶとく生き抜いたのではないかと前歴を想像させる。はたして、物語が進行するにつれて主人公の過去が明らかになっていく。英国情報部の誤った判断の犠牲になって本国を追われ、ヨーロッパの辺境へ流れてきたのだ。
 会話の主導権をとってばかりの主人公だが、権力と対峙するときには楽々とはいかない。
 権力も、気のきいたセリフを吐く。だが、そのユーモアは薄気味悪い。

 「『国の治安と私と、どういう関係があるのだ?』/彼が冷ややかな薄笑いを浮かべた。『そうでないと立証されるまでは、何でも治安上の必要にすることができるのです。そのあとは、たんに、申し訳ないが誤り、ということになる』彼の目がきびしさを加えた。『あなたはおわかりではないだろうが、私はいくつでも誤りを犯す用意がある』」

 アルネ・ニッカネンが主人公をこう脅す。ニッカネンは、単に職務に忠実なだけの、主人公にかくべつ悪意をもっていいるわけではない国家治安警官(と訳されているがよくわからない職名、米国のFBI捜査官に対応するものか)だが、やはり権力の一翼をになっているのである。

□ギャビン・ライアル(菊地光訳)『もっとも危険なゲーム』(ハヤカワ文庫、1976)
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