語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『高山右近』

2010年02月06日 | ●加賀乙彦
 高山右近は、切支丹大名として知られる。茶人、利休七哲の一人でもあった。
 摂津高山に生まれ、1564年に受洗(洗礼名ジュスト)。1585年、豊臣秀吉の治下に明石7万石を得たが、1587年に秀吉の伴天連追放令に抵触して改易された。加賀の前田利家に1万5千石で召し抱えられ、26年間仕えた。
 徳川家康が発したキリスト教禁令が徹底されるに及んで捕縛され、1614年に国外追放となり、マニラへ到着後わずか40日で帰天した。

 本書は、右近の晩年の1年間を描く歴史小説である。
 囚人の日々に焦点をあてながら、その時々に触発される右近の回想を織りまぜることで、その人となりを浮き上がらせる。
 全17章のうち計5章、宣教師クレメンテによる書簡は、いわばナレーターの役割をはたす。すなわち、右近の動向を同時代人の目で手短に語らせつつ、当時の切支丹をとりまく情勢を伝え、併せて世界史的視野で戦国時代末期から鎖国開始期の日本をスケッチする。

 実在の人物を実名で主人公とする小説は、加賀乙彦には珍しい。すくなくとも長編/中編小説では初めてである。
 加賀は、事実と真実(虚構)の区別に意識的な作家である。

 加賀はいう、「作家は指で書く」と。プロットは前もってこしらえることができるが、ストーリーは書いていくうちに指先から紡ぎだされてくる。想像力はどんどんふくらんで、登場人物の深くて暗いこころの奥の微妙なひだまで分け入り、厚みのある人物像が造形されていく。
 ドストエフスキー的混沌、破綻寸前でとどまる奔放な文体で精神の広大さを描く点が、加賀の魅力である。
 しかるに、本書は、史実に即しているせいか、内面描写は抑制され、文体は端正、乱れがない。動乱の世を背景としていながら、全編、堅固な静謐がただよう。

 だが、と思う。加賀は、異常な状況や(いまから見れば)異常な時代のなかの人間を描きつづけてきた。
 初期の『荒地を旅する者たち』や『フランドルの冬』では状況への医学的知的な対峙、『帰らざる夏』では軍国日本の時代精神に翻弄される少年たちを主人公にすえた思考実験、『錨のない船』では開戦へむかう時代風潮への抵抗、『宣告』では組織からの逸脱、『湿原』では冤罪、そして大作『永遠の都』及びその続編の戦後編『雲の都』では変転する歴史の中をしぶとく生き抜く一族を描いてきた。
 こうした流れのなかで本書をみれば、時代への抵抗をはっきりと打ち出している。科学者としては理想的な姿を描けなかった加賀は、カソリックの立場から、いわば理想型として『高山右近』を書いた。
 政治的思惑から切支丹を禁じる幕府の政策を、主人公は断固として拒否し、信をつらぬく。拒否というより、理不尽な権力に対する不服従である。
 要するに、かつてテーマとした「聖なる狂気」が、信仰に置き換えられたのである。

 加賀乙彦は、精神科医としてパリに留学する前に刑務所の医務官をつとめた。本名の小木貞孝名義の『死刑囚と無期囚の心理』 (金剛出版、1974)がある。
 殉教となるか追放となるか、裁断を待ち受ける囚人の日々が活写されているのも、むべなるかな。

□加賀乙彦『高山右近』(講談社 、1999、後に講談社文庫、2003)
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書評:『スコッチと銭湯』

2010年02月06日 | エッセイ
 本書はランティエ叢書の一冊。
 「ランティエ」とは、19世紀末パリの都市文化が産み落とした高等遊民の総称である。
 まるで田村隆一のためにあるような言葉だ。詩人、酒談義の好きなエッセイスト、ミステリーの翻訳家・・・・。いずれも世の役にたたないという点で、徹底している。

 しかし、よくしたもので、無用の用という言葉もある。
 無用の最たるものは、詩。
 本書はそれまで田村隆一が公開した7冊から抜粋したエッセイで構成されるが、詩も数編収録されている。
 詩誌「荒地」に拠って名をあげた人にふさわしく、いずれも硬質にして巧緻、豪胆にして繊細、舌頭にころがせば、読者の精神がストレッチングされる。

 エッセイは、一見無手勝流の奔放な文体だが、けれん味がない。
 話題は、徹頭徹尾、酒である。大阪のアメリカ文化センターで金関寿夫を司会に作家ジョン・ガードナーと公開ディスカッションをしたが、酔っぱらって何を話したのか忘れた、云々。

 話したことを忘れても、「田村先生はとっても素敵な方なの」と女性の編集者から慕われる人なのだ。
 だからと言って、こちらも豪快に飲もう・・・・などと早合点してはならない。
 談論活発、しかも詩人の感性を伴う批評眼を備えなければならない。
 たとえば、スコットランドの水車小屋を訪れていわく、「動いていない機械というものは、とにかく孤独である」
 あるいは、歴史家の奈良本辰也と対談の後、酔余のうちに口走る。「京の庭は、閉じられていなければならぬ。(中略)観覧料を払った瞬間、京の庭は消滅する」

 酔眼は、文明批評を生む。
 英国のパブリック・ハウスで一杯やりながら、ほぼ次のように観察するのだ。
 「パブは、飲み、かつ、お喋りする場だ。話題は、地域社会に関わり、国政や英国経済には及ばない。パブは常連で占められる。常連は先祖から続き、子孫に継がれる。このタテ糸に常連相互の間のヨコ糸が交差して、地域の共同体を支え、あるいは共同体をより緊密なものにする」
 パブのこうした機能は、日本では居酒屋よりも銭湯に近い。
 著者は言う、町は家族三代が住まないとほんとうの町にならない、と。
 「おじいさん、おばあさん、それに孫たちというタテ糸と、町内のヨコ糸がまじわるところに銭湯がある」

 「仁義廃(すた)れば銭湯廃る/銭湯廃れば人情廃る」・・・・
 これは、銭湯に備えつけのエアコンのカバーに印刷された著者の詩句だ。
 ここにして、著者がひそかに夢見るものが明らかになる。
 こまやかな人情に満ちたコミュニティがそれだ。「荒地」の仲間、吉本隆明と銭湯をともにし、それだけで終わらなくて共に鮟鱇鍋をつつくのも、カミさんが入院中の正月に鎌倉の知人を訪ねてまわって飲むのも、共同体という夢が底にあるのだ。

□田村隆一『スコッチと銭湯』(角川春樹事務所、1998)
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