語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【本】省略の妙、または寒い国の熱い話 ~『ペールキン物語』~

2010年02月05日 | 小説・戯曲
 現代小説の饒舌に飽いた人は、省略のきいた古典で口なおしするとよい。『ベールキン物語』なぞ、どうだろう。稀代の詩人にして反逆児、専制政治の犠牲者、プーシキンの代表作の一である。
 5編の短編から成る。たとえば「駅長」のあらすじは、こうだ。

 「私」は、「***県」の駅馬路(うまやじ)の「***駅」で、駅長とその14、5歳とおぼしき美貌の娘ドゥーニャに出会う。数年後、同じ駅に立ち寄ったところ、駅長は見る影もなく老いこんでいた。聞けば、「私」が出立してまもなくドゥーニャは失踪した、という。ドゥーニャはさる貴族の囲い者となったらしい。駅長は、風の便りをたよって、ペテルブルグに住まう娘をたずねた。愛されているらしいことはわかったが、くだんの貴族からは邪険に追い返された。告訴も考えたが、駅長は諦めた。やがて捨てられ、零落するだろうに。
 「いっそあれが死んでくれればいいのにと思いましてね。・・・・」
 その後、またその地域に赴いた「私」は、後日譚が気になって、わざわざ道草して寄った。駅長はすでに鬼籍に入っていた。無駄な出費をしたものだ、と悔いつつも、お節介ついでに駅長の墓を詣でたところ、案内した少年が意外な話を伝えてくれた。
 きれいな奥さんが六頭立ての箱馬車で、三人の子どもと共にやってきて、駅長が亡くなったと聞いて泣き出した、と。道は知っているから、と案内を断って、<俺らが遠くから見ているとね、あの人はここへぶっ倒れたなり、いつまでも起きあがらなかったっけ。そいから奥さんは村へ行って、坊さんを呼んでね、お金をやったのさ。そいから行ってしまったっけが、俺らにゃ五コペイカ銀貨をくれたよ。・・・・ほんとうにいい奥さんだったなあ>

 「私」の思いはまったく述べられていない。ただ、一行だけつけ加える。「私」もまた襤褸を着た少年に五コペイカ銀貨を与え、<この村に寄ったことも、それに使った七リーブルも、もはや惜しいと思わなかった>。
 5編の短編のいずれも語り手は「私」だが、たんなる語り部にすぎない。真の主人公は別にいて、短編ごとに違った主人公が登場する。誰が主人公なのか、さいしょは定かではない物語もある。前掲の「駅長」がそうだ。タイトルとなった以上、帝政ロシアの行政機構における末端の出先機関の長が主人公でありそうなものだが、じじつ駅長の行動と述懐に紙数が割かれるのだが、真の主人公は駅長の娘である。
 ただし、彼女は他人の言葉によって語られるだけの、いわば薄膜を通してのみ透かし見ることができる人物にすぎない。
 ところが、目鼻立ちははおろか髪の長短も背丈もまったく記されていないにもかかわらず、その人となりの印象はじつに鮮やかだ。
 容姿その他の描写を省略することによって、かえって人間像が陰影ふかく浮き彫りにされることもあるのだ。

□アレクサンドル・プーシキン(神西清訳)『スペードの女王・ペールキン物語』所収)(岩波文庫、1962)の「ペールキン物語」
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