チェーホフの小説は、ストーリーの展開よりも人物の造型、内面的な掘り下げにおいて光る。
たとえば、『可愛い女』。
そこそこに器量がよくて、気立てがよくて、惚れっぽい女。
自分の意見は何ひとつなくて、惚れた男の意見を受け売りするばかり。それがまた可愛い女と評判をとる理由になったりする。
当然ながら、世間的に見て、よい夫にめぐまれる。
ところが、佳人薄命。いや、この場合は佳人の旦那が薄命で、一人目ならず二人目にも先立たれてしまう。
傍らに惚れた男がいないと、自分の代わりに考えてくれる者がいないから、空虚な存在と化する。
そろそろトシで、器量も落ちてくる。
器量が落ちれば、ひとは寄りつかなくなる。
器量が落ちてなお、あるいは器量の如何に拘わらずひとを惹きつけるものがあるとすれば、見てくれとは別の何ものかなのだが、自分の意見というものがない女主人公オーレンカは、それに気づかない。
ひとのよさをそのまま生きて、ちっとも自らを顧みない。自然児である。
かくて、旧知の子どもに惚れこむ。
雀百まで踊り忘れず。
*
余談ながら、日本には、「可愛い女」は、いまでは少なくなった・・・・ような気がする。
しかし、会社その他の組織において、上司に忠実な「可愛い男」は絶えない。
□アントン・P・チェホフ(神西清訳)『可愛い女』(『可愛い女・犬を連れた奥さん』所収、岩波文庫、1965)
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たとえば、『可愛い女』。
そこそこに器量がよくて、気立てがよくて、惚れっぽい女。
自分の意見は何ひとつなくて、惚れた男の意見を受け売りするばかり。それがまた可愛い女と評判をとる理由になったりする。
当然ながら、世間的に見て、よい夫にめぐまれる。
ところが、佳人薄命。いや、この場合は佳人の旦那が薄命で、一人目ならず二人目にも先立たれてしまう。
傍らに惚れた男がいないと、自分の代わりに考えてくれる者がいないから、空虚な存在と化する。
そろそろトシで、器量も落ちてくる。
器量が落ちれば、ひとは寄りつかなくなる。
器量が落ちてなお、あるいは器量の如何に拘わらずひとを惹きつけるものがあるとすれば、見てくれとは別の何ものかなのだが、自分の意見というものがない女主人公オーレンカは、それに気づかない。
ひとのよさをそのまま生きて、ちっとも自らを顧みない。自然児である。
かくて、旧知の子どもに惚れこむ。
雀百まで踊り忘れず。
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余談ながら、日本には、「可愛い女」は、いまでは少なくなった・・・・ような気がする。
しかし、会社その他の組織において、上司に忠実な「可愛い男」は絶えない。
□アントン・P・チェホフ(神西清訳)『可愛い女』(『可愛い女・犬を連れた奥さん』所収、岩波文庫、1965)
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