語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『読書の学』

2010年02月11日 | エッセイ
 本書は、言語は事実の伝達である、と説く。事実は、個人の外部に生起する歴史的事実、社会的事実、ひっくるめて外的事実を指すが、それだけではない。個人の内部に生起し蓄積する感情、思考、論理、つまり文学的事実、学問的事実、ひっくるめて内的事実をも含む、云々。
 また、「著者を読もう」と説く。何を言っているかの理解で満足せず、著者の心理に分け入る能力が「読書の学」であり、少数者の能力だが、学問において大事なのは少数派の意見である、云々。
 言語は事実そのままではなく、事実が人間に与える刺戟、それに反応する意識の所産である。自覚された意識そのままでさえない。事実そのものが重要であるとともに、事実によって生まれた著者の意識、あるいは意識を処理する著者の態度(文章ないし文体に反映する)、それを重視する方法が同時に存在しなければならない、というわけだ。
 以上は前半の要点で、後半は『論語』注解の各説、ことに18世紀の日中の学者、日本では荻生徂徠たち、中国では段玉裁ほかをとりあげ、「著者を読む」実践を行う。

 本書は、月刊「ちくま」に1971年夏から1975年春まで連載したエッセイを一巻にまとめたものである。
 雑誌に書ききれなかったことを5編の補注で示す。その補注5は、吉川幸次郎自身の五言古詩で、「読書の学」という考え方をよく示す・・・・らしい。漢詩の素養がないから、らしい、という言い方しかできないが、詩句にいわく「人各無窮思」。人は各々無窮の思い。自注にいわく、「人心の同じからざるは其の面の如し」は徂徠の愛する『左伝』にある語のよし。

 要するに、「読書の学」と題する本書の読書は、読書一般ではない。私たちの読書の多くがそうであるような、漫然と読みながす受け身の読書とは異なる。
 それは攻めの読書である。
 当然、楽しくないから途中で放りだす、といった容易な態度で読むわけにはいかない。
 はなはだ不自由だが、不自由の先に待っているのは書き手の人格である。言葉の広大な荒野の向こうに一個の人格を見いだす喜びは、不自由の代価をはらって尚お釣りがくるだろう。それは、サハラ砂漠で遭難して渇きに渇いたサン=テグジュペリが、遊牧民と出会う僥倖によって生の側にたち戻る、そんな喜びに似ているかもしれない。

□吉川幸次郎『読書の学』(筑摩書房、1975)
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