語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『カトー』

2010年02月07日 | 小説・戯曲
 2009年8月30日の衆議院議員総選挙で、民主党は国民の輿望をになってスローガンの政権交代を実現した。自民党に代わって民主党が与党になったこと、それ自体には異論がない。権力は腐敗する。政権は随時交代するべきだ。
 しかし、翌年2月5、6日に朝日新聞社が実施した全国世論調査では、鳩山由紀夫内閣発足以来初めて内閣不支持率が支持率をうわまわってしまった。最大の理由は、小沢一郎幹事長の政治資金問題だ。与党内部に自浄能力がない。首相からして及び腰だし、夫子自身、政治資金疑惑をかかえている。

 わが国会議事堂には、獅子吼する大カトーはいないのか。マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウスである。
 晩年、何か意見を述べるとき、前後の脈絡なく常に、「なにはともあれ、カルタゴは滅されるべきものと思う」と付けくわえた。堅固な意志でもって、第3次ポエニ戦役の火つけ役となったのである。

 大カトーは、質実剛健、廉潔の士として知られる。じじつ、昔風な勤労、質素な夕食や火を使わぬ朝食、粗末な衣服や庶民と同じ住居で暮らすことで、当時名高かったらしい。
 しかし、やりすぎもあって、召使いを役畜のように酷使し、彼らが高齢化すると追い出したり、売り払ったりした。
 これは頑固一徹の性格、人間と人間との間の結びつきは利益しかないと考えたからだ、とプルタークは批評している。

 雄弁家として知られたが、やりすぎは「爽快でまた激越、嘲弄的かつ厳粛、警句的でまた論争風」な弁論にも見られた。
 たとえば、ローマ人は羊に似ている、一頭(個人)では言うことを聞かないが、いっしょに集まったときには引っぱられていく、うんぬん。
 痛烈きわまる。
 この揶揄、日本人にもあてはまりそうではないか。

 皮肉の例を、もう一丁。
 放縦でふしだらな生活を送った者から非難されたとき、返す刀でいわく、「私とあんたとの戦いは対等でない。あんたは悪口を聞くのも言うのも平気だが、わしときては悪口を言うのは不愉快だし、聞くのには慣れていないから」
 とにかく歯に衣を着せない人物だったらしい。
 だから、自賛も遠慮しない。ローマ市民がカトーに負うほどにカトーはローマ市民に負うところはない、などと遠慮会釈もなくうそぶいた。

 いっしょにいると疲れるが、わが国会議事堂にはぜひ登場していただきたい人物だ。

□プルターク(村上堅太郎訳)『カトー』(『世界文学全集5 プルターク、クセノポン』所収、筑摩書房、1977)
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