語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『標的は11人 -モサド暗殺チームの記録-』

2010年02月18日 | ノンフィクション
 1972年9月5日、ミュンヘンのオリンピック村をPLO主流派「ファタハ」に属する「黒い九月」が襲った。イスラエルの選手、役員11名が銃または手榴弾によって殺害された。
 ゴルダ・メイア首相はモサドの一員、アフナーに密命をくだす。ミュンヘンの事件に責任のあるテロリスト、11名の抹殺である。

 5名の特命チームによるザ・ミッション、すなわち人間狩りが開始された。西ヨーロッパに潜行し、9名を斃した。
 だが、アフナーは任務に幻滅した。3年間に近い心労があった。それだけではない。依然としてテロリズムの嵐は吹き荒れている。自分たちの仕事がいかほどの抑止力となっただろうか、という疑惑が胸裏に湧いた。加えて、自分たちだけがマン・ハントの特命を受けたチームではない、という事実がわかった(リレハンマー事件)。
 チームもその存在が敵方に知られ、仲間が一人一人暗殺されていき、3名を喪った。潮時であった。

 作戦終了の通知を受けて引き上げると、意外なことにアフナーは英雄として迎えいれられた。工作管理官は「次の任務がある」と告げた。アフナーは、もうたくさんであった。ニューヨークで妻子とともに平穏に暮らしたかった。工作管理官は執拗であった。銀行に手をまわして、アフナーが貯金していた3年間の報酬を封鎖し、「命に従えば返す」と脅した。
 拒否し、無一文となったアフナーは、名を変え、妻子とともに合衆国に移住した。

 本書は、アフナーの告白をもとに、ジャーナリストの著者があらわした。告白が事実か否かを調査し、巻末の「取材ノート」で検証している。アメリカ探偵作家クラブ賞(MWA)ノンフィクション部門受賞。スピルバーグ監督映画『ミュンヘン』の原作。
 当時のモサド長官ツビ・ザミルは、「ゲリラ暗殺は報復ではなく、次のテロ発生を防ぐ目的だった」とコメントするが、暗殺工作を否定していない。
 イスラエルの対テロ政策の一端、そして一人のエージェントと彼が率いるチームの活動が主題だが、スパイ組織の人を人として扱わない(骨の髄まで利用しつくす)側面も遠慮なく描いて、読者をして肌寒く感じさせる。

□ジョージ・ジョナス(新庄哲夫訳)『標的は11人 -モサド暗殺チームの記録-』(新潮文庫、1986)
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書評:『どこ吹く風』

2010年02月18日 | 批評・思想
 「現代」1990年1月号から1996年12月号まで連載したコラムの集成。単行本化にあたって新たに書き下ろし原稿が加わっている。随所に挿入される「二伸のやうな文章」がそれにあたるらしい。

 たとえば、『剣豪の盛衰』。
 剣術つかいでは、江戸時代からずっと荒木又衛門が権威だった。又衛門には『伊賀越中双六』があるけれども、武蔵をあつかった歌舞伎なんて聞いたことがない。格がずんと上だったのである。ところが吉川英治が『宮本武蔵』を書いて、この相場を粉砕してしまった。以後、剣豪といえば武蔵ただ一人みたいな体制が続いた。しかるに、最近様子が変わってきた。山田風太郎『柳生十兵衛死す』がベスト・セラーになり、秋山駿は剣の名手は武蔵と十兵衛であると同格にした。又衛門は柳生流だから、又衛門の権威失墜によって衰えた柳生流の復活と見ることもできる。しかし、わたし(丸谷才一)は十兵衛個人の魅力を重視したい。就中、彼が片目であったことを重視したい。わが民間信仰には片目の男を尊敬する風があった(鎌倉権五郎景正、山本勘助、柳田国男『一目小僧』)。片目崇拝の習俗は世界的に存在する(宗教学者エリアーデの小説)。丹下左膳もこの系譜に属する。かく眺望すると、柳生十兵衛の急上昇には、前近代的宗教感情の巻き返しという底流があるような気がする・・・・。
 こう書いて「二伸のやうな文章」にいわく、「ゲゲゲの鬼太郎もこの系譜に属するはず」。
 境港市観光協会が聞けば、喜びそうな話だ。

 このあたりは閑談といってもよいが、本書は話題を文学に限定しない。丸谷才一としては珍しく、文学を離れて世相や政治をじかに批判する。
 著者は文学者だから、言葉あるいは文章から切りこむ。
 たとえば、『漢文の復習』では矛盾の故事を引いて、湾岸戦争を批判する。
 イラクの30センチ砲はイギリス製。毒ガスや生物兵器、科学兵器はドイツが供給したもの。戦闘機はフランス製、ミサイルはソ連及びアメリカ製、強固この上ない地下壕や地下秘密基地はイギリス、ベルギー、ユーゴスラビア、ドイツの国際企業が建設した。「つまり多国籍軍側は、自分たちが熱心に売りつけた矛や盾を使ふイラクと、せっせと闘っているわけである。もちろん自分たちが作った矛や盾を用ゐて」
 このロジックは、イラクやアフガニスタンにも適用されるだろう。

 あるいは、歴史のなかに今の世相を位置づけ、諷する。
 『殴るな』では、教育界やスポーツ界における「愛の鞭」の根を日本軍の体罰に求め、これは西洋の軍隊の真似だ、と指摘する。ことにイギリス海軍の私刑は有名で、バットで尻を打つのだ。
 『日本史再考』では、政治家が公約を踏みにじる風習の根を明治維新に求める。攘夷を迫って幕府を倒した薩長土肥は、政権を奪取すると、掌をかえしたように開国に踏みきったのだ。

 かくのごとく政治や世相の隠れた深層を簡潔にえぐりだして、見かけは穏やかだが、本書の一編一編は強力な破壊力を秘めている。

□丸谷才一『どこ吹く風』(講談社、1997)
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書評:『汚れた海』

2010年02月18日 | ミステリー・SF
 三好徹の本名は河上雄三。読売新聞社で敏腕記者として鳴らした。彼が作成した取材の要諦は、後輩から後輩へ引き継がれボロボロになるまで読まれた、という。
 上司と喧嘩して横浜支局のとばされ、同期のあらかたが本社に戻ってもなお支局に配置されつづけたため、作家に転身した。三好の愛読者として、読売新聞社の無能な人事部局に感謝したい。

 こうした経歴のせいか、三好には新聞記者を主人公とするミステリーに秀作が多い。たとえば、主人公の新聞記者が横浜市及び神奈川県を舞台に探偵する天使シリーズ。他方、まきこまれ型スパイ小説の名手でもある。直木賞受賞作品を含む「風」シリーズ3部作がある。
 本書は、記者を主人公とするまきこまれ型のミステリーだ。秀作の多い三好作品の中でも、ことに秀逸な一冊だ。
 草競馬の八百長と公害。これらの隠蔽から暴露までの間に二つの殺人事件が発生する。事件の捜査(または記者による探求)と平行して、暴力団に内通する警察官の監察が進行する・・・・。

 T・S・エリオットは、チェスタートン論かどこかで、大衆文学は純文学より影響力がおおきい、と喝破した。大衆文学が有する影響力の要因はいくつかあるが、三好の場合、まず文体をあげなくてはならない。
 社会部記者の名残か、簡潔にして明晰。硬質にして論理的。ナルシシズムは毫も見られない。感傷もない。「私の逃亡も、これまでのところ、かなり図式的である。/金がないから、質屋に時計を入れよう、などとしたことはその最たるものだった。図式的な逃亡者は、 図式的な警察にかなうわけがない。それを思えば、私は図式からはずれた行動をしなければならない」
 かつての職業柄からか、世間知に満ちている。「おかしな言い方になるが、信用のあるノミ屋は信用のある客を選ぶのだ」
 しかも、作家らしく人情のヒダに分け入る。「『「喫茶店に入ろうよ』/私は、残り少ない財布のことを思ったが、おとなにはおとなの威厳を保つ必要があった」
 折りにふれて、ほとんどアフォリズムに近い一行または数行が挿入され、世間あるいは人間のありようを閃光で浮き上がらせる。「沢本は慰めるようにいいはしたが、慰めるということは、ある意味で肯定に通じている」
 モラリスト的文体は、三好ミステリーをたんなる謎解きにとどまらない厚みをもたらすとともに、殺人という稀れな出来事、大多数の実人生では一生に一度遭遇するか、しないかの事件を日常に近づける。

 ところで、犯罪捜査とは、三好の定義によれば、犯人に対する時間的空間的接近である。主人公が警察官ではなく新聞記者の場合でも、犯人に対して時間的空間的接近を図る。じつに旺盛な探求精神である。
 主人公は、しばしば記事を書くより探究を優先させ、探偵としての有能が記者としての無能を結果したりもする。本書の場合がそうなのだが、このあたりは伏せておくのがミステリー・ファンの仁義だろう。 

□三好徹『汚れた海』(中公文庫、1974)
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書評:『ロス・アラモス 運命の閃光』

2010年02月18日 | 小説・戯曲
 1945年4月、米国ニューメキシコ州中北部に位置するロス・アラモスで事件が起きた。正確にいえば、この地から38km南東のサン・タフェで死体が発見されたのである。顔はつぶされていたが、身元はまもなく判明した。原爆秘密製造基地の保安部員であった。
 機密が漏洩したのか、情痴のもつれが原因か、はたまた単なる行きずりの強盗殺人か。いずれであるかの見極めが急務となった。調査のため、ワシントンで「(マンハッタン)計画」の隠蔽工作に従事していた主人公、マイケル・コノリーが呼びよせられる。

 この謎解きがあるがゆえにミステリー小説に分類されるのだが、本書のふところはもう少し深い。
 まず、歴史小説ないしノンフィクション・ノベルとして読める。昼夜兼行で原爆開発にいそしむ科学者たち。余暇には音楽会やパーティを楽しむ。ナチス・ドイツが降伏すると、「計画」続行の大義名分が失われたがゆえに今後を集会で討議しようとする。これら科学者たちを秀でた頭脳と強靱な意志でひっぱる研究所長オッペンハイマー。彼の胸中も複雑である(史実では後に水爆開発に反対して公職を追放される)。完成を急がせつつも、オッペンハイマーに友情をいだく基地総司令官グローヴス陸軍中将(史実では准将)も実名で登場する。そして、基地本来の目的遂行をそっちのけに、赤狩り、スパイ狩りに狂奔して科学者へ圧力をかける保安部。内幕を知る人でないと書けない、と評される詳しさである。

 恋愛小説でもある。マイケルとエマの情事は姦通なのだが、奇妙にさわやかなのだ。一見あばずれ風のエマの直行な性格、純情は、やがてマイケルにある重大な決断をとらせるに至る。雄大な自然の中に、インディアンの滅亡した部族の遺跡をたずねる二人は、ほとんど道行といってよい。
 恋愛場面ではそれが主体となるほど、全体として会話の多い文体で、読みやすい。長編だが、一気呵成に通読できる理由の一つはこのあたりにある。
 ひとすじ縄ではいかない会話もある。

  「将官ってやつはみんな似たりよったりなんだ」
  「幸福な家庭と同じだよ」
  コノリーは笑った。「学卒だな、あんたは」

 同僚ミルズ中尉と主人公は、初対面で軽いジャブを交わしあう。『アンナ・カレーニナ』の冒頭を下敷きにしたやりとりで、後にマイケルが陥る情事を暗示するしかけにもなっている。
 かといって、ペダンチックな文体ではない。「言うことなど何もない、ただ生きていられればそれだけで充分なのだ、というようにじっとこちらを凝視しているその目」という鮮やかな描写があるし、「冗談が通じないのだ。このせいでダニエルは年よりも若く見えた」といった人生論的洞察もある。

 著者は、30年間にわたって出版社につとめ、編集や経営にたずさわった後、本書を書きおろした。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀処女長編賞受賞作家としては、最高齢の範疇にはいるらしい。文章に年季がはいっているのも、むべなるかな。

□ジョゼフ・キャノン(中村保男訳)『ロス・アラモス 運命の閃光(上・下)』(ハヤカワ文庫、1999)
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