語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『聖マルコ殺人事件』 ~塩野七生の歴史小説~

2010年02月15日 | 小説・戯曲
 13世紀以来興隆を誇っていたヴェネツィア共和国も、16世紀前半、ようやく落日の光に包まれつつあった。かたや、勃興するトルコ帝国に地中海の基地を次々に奪われ、かたやイタリア半島支配をめざすオーストリア及びスペインの両ハプスブルグ家から圧迫を受けていた。貿易立国たるヴェネツィアは、異教徒の国トルコ帝国との和平を国是としたが、他方、西欧のキリスト教社会と足なみをそろえなければならない。ヴェネツィアの外交は、まさに綱わたりであった。
 こうした難しい時期に、マルコは若くして抜擢され、ヴェネツィア政界の階段を一歩づつ駈けあがっていく。私生活も申し分なかった。ローマ市民を足もとにふれさせたという才色兼備の高級遊女オリンピアがいた。
 元首アンドレア・グリアッティの庶子、アルヴィイーゼは、ダンドロ家のマルコの幼なじみにして親友であった。庶子なるがゆえにヴェネツィアでは支配階級から受け入れられないアルヴィイーゼは、イスタンブールで貿易商人として台頭していく。
 ヴェネツィアは、国益のため、スレイマン大帝の寵臣、イブラヒム宰相とよしみを通じていた。スレイマン大帝に野心的な愛人ができたことから、盤石だったイブラヒムの地位に翳りが生じだす。愛人ロッサーナは、トルコ帝国の伝統を破って、スルタンの正妻、つまり皇后になった。
 アルヴィイーゼには、ヴィネツィア貴族の夫をもつ愛人がいた。二人が一緒になるため、また、祖国では立身がおぼつかないため、アルヴィイーゼは賭けにでる。イブラヒム宰相と結び、遠征軍を率いてハンガリーを抑え、オーストリアのハプスブルグ家と闘ったのである。遠征が成功すれば、イブラヒム宰相の権力基盤が安定するという点で、またオーストリアのハプスブルグ家による圧迫が減少するという点で、ヴェネツィアにとっては有利であった。しかし、西欧キリスト教社会との関係上、公然とは支援できない。
 マルコは、密命をおびて、イスタンブールに潜入する。
 イスタンブールに呼び寄せた愛人リヴィアとアルヴィイーゼとの蜜月は、短かった。バルカン半島で客死したアルヴィイーゼのあとを追って、リヴィアは海に身を投じる。
 帰国したマルコを待ち受けていたのは、国政を動かす「C・D・X(10人委員会)」による峻厳な尋問であった。思いもよらないところに訴因があった。本書の冒頭で起きた「聖マルコの鐘楼」における死亡事件には、マルコの意気を阻喪させる事実が背後にあった・・・・。

 本書は、『メディチ家殺人事件』および『法王庁殺人事件』とともに三部作をなし、かつ、その嚆矢だ。
 時代は単なる背景として借りたにすぎず、小説の中を闊歩するのは現代人であるのが時代小説であるとすれば、史実にほぼ忠実で、史料のすきまに想像力をふくらませるのが歴史小説だ。三部作は、歴史小説である。
 主役は、『聖マルコ』はアルヴィイーゼ・グリアッティ、『メディチ家』はロレンツィーノ・デイ・メディチ、『法王庁』はピエール・ルイジ・ファルネーゼやその庶子アレッサンドロで、マルコは仮構の存在だ。しかし、作品に占めるマルコの比重は、後の作品ほど高まる。第一作では純然たる脇役、事件に対する視点を提供する存在にすぎないが、第二作では高級遊女オリンピアとの交情に紙数が割かれる。第三作では、マルコがほぼ主役に近い地位を確立している。オリンピアとの華麗な、しかし悲劇的な末路となる恋が彩りを添える。
 歴史の語り部である塩野七生の歴史小説は、細部に妙味がある。当時の建物から通りの様子、芸術作品まで、小説のディテールに筆を惜しまない。読者は、当時の人々の生活ぶり、ヴェネツィア独特の行政機構、イタリア内外の政治情勢、そして史上実在した人物の風貌を目のあたりにする思いをするだろう。
 そして、当時の主要都市を旅する楽しみも提供される。「C・D・X」により公職追放された3年間、マルコはフィレンツェおよびローマを訪れるのだ。
 三部作には、塩野七生のエッセイや歴史物語のこだまを見つけるの愉しみもある。たとえば、マルコ、ロレンツィーノおよび教養のある政治家フランチェスコ・ヴェットーリのマキャベリをめぐる鼎談だ(『メディチ家』)。ここでくり広げられる議論は、『わが友マキャベリ』の読者にはつとに親しい。

□塩野七生『聖マルコ殺人事件』(朝日新聞社、1988)、『メディチ家殺人事件』(朝日新聞社、1990)、『法王庁殺人事件』(朝日新聞社、1992)
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コメント (2)
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