本書は、「鳩よ!」誌に連載された45回分のコラムがもとになっている。特に定まった主題はない。しいて言えば、タレント本から哲学まで「売れた本、話題になった本」である。小説には見向きもせず、もっぱらノンフィクションを扱う。
流行の最上の定義はすぐ過ぎ去ることだ、と加賀乙彦はいった。流行というほどはやったわけではないが、すぐ過ぎ去った本であることは間違いない。試みに書名索引をざっと眺めてみると、文庫入りしてしぶとく生き残った本もある(『少年H』)けれど、たいがいは店頭から消えている。
本書の単行本は1998年刊。文庫入りにあたって書誌的情報を最新のものに更新し、コメントを追加している。時とともに鮮度の落ちる時評に対する「せめてもの延命処置」と謙遜しているが、自負はそうとうなものだ。
全253冊が9つのカテゴリーに振り分けられている。すなわち、<カラオケ化する文学><ニッポンという異国><文化遺産のなれのはて><野生の王国><科学音頭に浮かれて><おんな子どもの昨日今日><歴史はこうしてつくられる><知ったかぶりたい私たち>である。タイトルだけで内容を察するのは難しいが、なかみを読んでタイトルに戻ると、言いえて妙という命名のしかただ。
個々の本を単独で論じる方式はとらず、テーマにかなう複数の本をとりあげて横断的に論じる。
複数の本を並べて比較し、その特徴をとりだす手際はあざやかだ。たとえば、3種類の辞書を論じて、『日本語大辞典 第2版』を「企業社会に密着した御用学者か顧問タイプ」などと命名する。イメージあざやかな命名だ。もち、『大辞林』及び『大辞泉 第2版』からも実例を引いて比較した上の結論だ。
もっとも、並べて比較するくらいのことはオレだってできるぞ、とおっしゃる方もいるかもしれない。著者はとくに反論しないと思う。あくまで一読者の立場に立つと、宣言しているのだから。単行本あとがきにいわく、踊る読者とは「あなたや私のような小市民的読者のことなのである」
ちゃんとアリバイを用意しているのだ。この著者、一筋縄ではいかない。高所から見下ろし、教えさとす学者的な姿勢は無縁だと宣言しているのだ。
要するに、本書は本を介した世相の診断書である。
では、以下、本を腑分けする見事なメスさばきを追跡しよう。
<野生の王国>の中の1編、「盆栽鑑賞式の天然記念物図鑑が自然保護とは笑わせる」をサンプルに、時事的話題の奥にあるものをつかみだす手際をみる。
朝日新聞の1995年5月1日付記事から書き起こす。日本産トキ「ミドリ」(雄・推定年齢21歳以上)が死亡、「キン」(雌・推定年齢28歳以上)のみが残って国産のニッポニア・ニッポンの絶滅が確定した、云々。
当時長寿で知られた人間のきんさん、ぎんさん並の報道ぶりだが、嗤うのはさっと済ませて、本質的な問題設定を行う。
すなわち、トキ報道につきものの「特別天然記念物」は何を記念しているのか。
俎上にのせる本は『日本の天然記念物』。オールカラーで約1,100ページ、国の天然記念物955件が収録されていると、まず概要を示す。○○寺の大イチョウ、大ケヤキといった銘木、巨木、古木のたぐいが目立つところから、「天然記念物はもともとこういう銘木を残したいという願望からはじまったと聞く。早い話が盆栽の名品みたいなものである」
「早い話」以下に批評の鉈がふるわれる。管轄官庁が文化庁である点を指摘して、天然記念物=盆栽説を補強する。
これはしかし、まだ序の口だ。「日本の動植物相を守る」目的はちっとも環境保護と関係していない、と容赦ない。天然記念物指定の底に珍奇を守る発想があるからだ、と理由を推定する。だから、いかがわしさは指定の仕方に端的にあらわれる、と追求する。指定は地域指定と種指定に分かれるが。種指定は捕獲が禁止されるだけで、その動植物が棲息する自然の開発・破壊には何ら規制が加えられない、と指摘する。どこにでもいるウグイやウミネコは地域指定とされるところからして、開発の妨げになるものは種指定、観光名所になりそうなもの(あるいはそれ以外役立ちそうもないもの)は地域指定と使い分けされているらしい、と言いにくいことをズバリと言ってのける。うがった意見のように見えて、こう整理されるとわかりやすい。
『日本の天然記念物』にはいちおう提言が出ていることは出ているのだが「おざなりの感がする」と観察し、以下、痛烈な機関銃弾が炸裂する。「もっときっぱりした提言はできないのだろうか」「種指定の問題点をわかっていない大ボケの記述まであったりする」「<美しい自然を守りたい!>(帯のコピー)というならば、『心ないマニア』なぞというチンケな敵だけじゃなく、個別の『大きな敵』を具体的に指摘したってバチはあたらないと思うぞ」
余勢をかって『レッドデータアニマルズ』も斬って捨てる。そもそもレッドデータは名簿でしかない、そんなものはやめろとはいわないが、「ただ、リストだけ作って満足するというやり方が、いかにもお役所的でアホらしい気がするだけである」
文庫版の追記で辛口に拍車がかかる。メダカが絶滅危惧種第二種に指定されたことをとりあげて、「メダカが絶滅しても、だれひとり本当には困らない。自然保護行政のとろさは、人々の無関心と表裏一体なのである」
ズケズケと言ってのけるにもかかわらず嫌みを感じさせないのは、軽いノリの文体のせいだ。<カラオケ化する文学>の5編から実例を引く。
「にしても一読、ふーん、やるじゃん、という感じがした」
「やくざ映画以外にも、こんな価値観が意味をもつ世界がまだあったのか・・・・と思うと、頭がクラクラしてくるぜ」
「まっとうな意見だとは思うけれども、案外逆かも。当節の「文学」をちっとは読んでみたから、『あっ、この程度でいいのね』と思って応募してくるとか・・・・」
「ほらあ、同じでしょ?」
「鮮度で選ぶなら、批評意識のある点を買って、Bグループでしょう。わっかんないな」
くだけた言いまわしで、威勢がよい。著者にならって、「はすっぱ文体」と命名しよう。
その特徴は、第一に、独特の軽快なリズムを醸し出す。
第二に、気のおけない者同士の会話みたいだから、憎まれ口をきいても大人げない反応はとりにくい。紳士淑女ならつつましく口に出さないことを著者があえて口にしても(卑語だって遠慮しない)、紳士淑女の諸君は無視すればよい。
第三に、巷間のはやり言葉(「トレンディ俳優」唐沢寿明)を引用して抵抗感を起こさせないし、時代の表層に密着するポーズをとりやすい。あくまでポーズである。じっさいは流行に身を任せてなんかいない。和して同ぜず。
第四に、軽快な口調は視点を身軽な移動させていることを示す。
こうした軽さは、なだ・いなだのそれの延長にあると思う。また、ざっくばらん調は丸谷才一のライト・エッセイの延長にある。評論の世界で、なだ・いなだや丸谷才一というブルトーザーが整地したから、斎藤美奈子という軽自動車が疾駆できるようになったのだ。
「はすっぱ文体」は軽佻浮薄に見えるが、ときどき啖呵を切ってすごむから油断できない。フットワークは軽いけれど、「蝶のごとく舞い、蜂のごとく刺す」のだ。時にはヘビー級のパンチをくりだす。
個々の書評のタイトルにもこまめにジャブをくらわす。たとえば、哲学がはやりの世相を一刀両断して「哲学ブームの底にあるのは知的大衆のスケベ根性だ」、あるいは『全共闘白書』を論じて「死ぬまでやってなさい。全共闘25年目の同窓会」。
造語(「お役所チック」)や略語(「学まん」=学習まんが)を大量生産して、威勢のよさ、軽快なリズムはいっそう磨きがかかる。
ことに略語は、言葉にまとわりつく情緒を切り捨てて記号化する作用を伴うから、威力を発揮する。
たとえば、聖書の翻訳を論じた2編(「汝、驚くなかれ。いまどきの聖書日本語訳」の教会訳編と個人訳編)。周知のようにキリスト教はカソリック(旧教)とプロテスタント(新教)の二派に大きく分かれる。ここで著者は、旧教を○の中にカ、新教を○の中にプで表記するのだ。マルカとマルプである。唖然、なんたる冒涜。マルビとマル金よりもひどい。
が、各種の翻訳をたんねんに読みこなした上で比較している。見かけによらず、研究熱心なのである。
個人訳をとりあげては、本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』に「被抑圧者・被差別者」の視点を見て、そこからくる翻訳の特徴を拾いだす。「上」の一字があるとないとで超人イエスと人間イエスの違いが出てくる、云々。
「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。(教会訳:新共同訳)
「イエスは湖を歩いて弟子たちのほうへやって来た。(個人:本田訳)
文体に工夫をこらす斎藤美奈子は、他人の文体にも敏感なのだ。
ついでに言うと、中丸明『絵画で読む聖書』に着目した眼は鋭い。この本では、イエスは名古屋弁を話す(「なにをみゃあみゃあ騒いどるだぎゃあ。わしだ、わが身だがね。化物でもなんでもねゃあで」)。爆笑、と笑わせるが、ちゃんと理由はおさえているらしい(イエスの言葉はアラム語、カナン語の方言、日本語で言えば名古屋弁のミャーミャー)。
新訳聖書は、「はじめに言葉があったんし・・・・その言葉が神さまだんし」のようにお筆先ふうに訳すと元のテキストの文体の雰囲気がよく伝わる、と林達夫がすでに指摘していた(「邪教問答」、『林達夫著作集第3巻 無神論としての唯物論』、平凡社、1971)。斎藤美奈子の着想は、意外と正統的だ。
「はすっぱ文体」は、一見あらっぽく見えて、じつは意外と繊細、複雑なニュアンスをはらむ。
<ニッポンという異国>の1編から、以下、引用する。
「バブルの崩壊以後も、食べ物屋のガイドブックは、あいかわらず書店にひしめきあっている。/それらを端から立ち読みしているうちに、じわりと腹が立ってきた。タウン情報誌も旅行ガイドも食べ物屋、食べ物屋、食べ物屋。ったく日本人は金を払ってメシ食う以外に能はないんかい。/店を吟味する前に、書店にあふれるゴミの山をかきわけて、本を吟味しなければならない馬鹿ばかしさ。せめて「料理店」ガイドならぬ「料理店ガイド」ガイドがあったら、類書の洪水状態も少しは緩和されるかな。/というわけで、今回は、わが貧しい食卓もかえりみず、料理店ガイドの読み比べを決行することにした」
これは、「安くてうまい本はどれだ。辛口『料理店批評』批評」の書き出しである。
第一に、軽い俗語調で読ませる語り口で、読者をさっと自分の土俵へ引きこむ。
第二に、問題設定がきわめて明快で、ゆえに書評する目的がすっきりと読者の頭にはいる。思わせぶりなところはひとカケラもない。
第三に、細かいところですでに批評が挿入されている。たとえば「立ち読み」。買ってまで読む本じゃない、と暗にほめのかしているのである。「書店にあふれるゴミ」となれば痛烈。ゴミを書いた著者、刊行した書肆はムカッとくるにちがいない。
第四に、自分の立場を明らかにしている。「わが貧しい食卓」という以上、その道の権威ではないということだ。一介の読み手、そんじょそこらの「小市民」である。この立場を明確にし、かつ、徹底している。
第五に、「『料理店』ガイドならぬ『料理店ガイド』ガイド」などと、対象から等分に距離をおいてまとめて面倒を見る批評法、手の内を見せている。
じじつ、このあとで5冊の本(『東京いい店うまい店』『恨ミシュラン』『いまどき真っ当な料理店』『東京いい店やれる店』『エピキュリアン』)をずらりと並べて標的にし、遠慮会釈のないツッコミを入れている。
ここで第六点を追加するなら、斎藤美奈子はどの本にも妙な思い入れを示さない。愛想がないといえば愛想がないが、公平といえば公平である。このへんの潔癖は買いたい。
□斎藤美奈子『読者は踊る』(文春文庫、2001)
↓クリック、プリーズ。↓
流行の最上の定義はすぐ過ぎ去ることだ、と加賀乙彦はいった。流行というほどはやったわけではないが、すぐ過ぎ去った本であることは間違いない。試みに書名索引をざっと眺めてみると、文庫入りしてしぶとく生き残った本もある(『少年H』)けれど、たいがいは店頭から消えている。
本書の単行本は1998年刊。文庫入りにあたって書誌的情報を最新のものに更新し、コメントを追加している。時とともに鮮度の落ちる時評に対する「せめてもの延命処置」と謙遜しているが、自負はそうとうなものだ。
全253冊が9つのカテゴリーに振り分けられている。すなわち、<カラオケ化する文学><ニッポンという異国><文化遺産のなれのはて><野生の王国><科学音頭に浮かれて><おんな子どもの昨日今日><歴史はこうしてつくられる><知ったかぶりたい私たち>である。タイトルだけで内容を察するのは難しいが、なかみを読んでタイトルに戻ると、言いえて妙という命名のしかただ。
個々の本を単独で論じる方式はとらず、テーマにかなう複数の本をとりあげて横断的に論じる。
複数の本を並べて比較し、その特徴をとりだす手際はあざやかだ。たとえば、3種類の辞書を論じて、『日本語大辞典 第2版』を「企業社会に密着した御用学者か顧問タイプ」などと命名する。イメージあざやかな命名だ。もち、『大辞林』及び『大辞泉 第2版』からも実例を引いて比較した上の結論だ。
もっとも、並べて比較するくらいのことはオレだってできるぞ、とおっしゃる方もいるかもしれない。著者はとくに反論しないと思う。あくまで一読者の立場に立つと、宣言しているのだから。単行本あとがきにいわく、踊る読者とは「あなたや私のような小市民的読者のことなのである」
ちゃんとアリバイを用意しているのだ。この著者、一筋縄ではいかない。高所から見下ろし、教えさとす学者的な姿勢は無縁だと宣言しているのだ。
要するに、本書は本を介した世相の診断書である。
では、以下、本を腑分けする見事なメスさばきを追跡しよう。
<野生の王国>の中の1編、「盆栽鑑賞式の天然記念物図鑑が自然保護とは笑わせる」をサンプルに、時事的話題の奥にあるものをつかみだす手際をみる。
朝日新聞の1995年5月1日付記事から書き起こす。日本産トキ「ミドリ」(雄・推定年齢21歳以上)が死亡、「キン」(雌・推定年齢28歳以上)のみが残って国産のニッポニア・ニッポンの絶滅が確定した、云々。
当時長寿で知られた人間のきんさん、ぎんさん並の報道ぶりだが、嗤うのはさっと済ませて、本質的な問題設定を行う。
すなわち、トキ報道につきものの「特別天然記念物」は何を記念しているのか。
俎上にのせる本は『日本の天然記念物』。オールカラーで約1,100ページ、国の天然記念物955件が収録されていると、まず概要を示す。○○寺の大イチョウ、大ケヤキといった銘木、巨木、古木のたぐいが目立つところから、「天然記念物はもともとこういう銘木を残したいという願望からはじまったと聞く。早い話が盆栽の名品みたいなものである」
「早い話」以下に批評の鉈がふるわれる。管轄官庁が文化庁である点を指摘して、天然記念物=盆栽説を補強する。
これはしかし、まだ序の口だ。「日本の動植物相を守る」目的はちっとも環境保護と関係していない、と容赦ない。天然記念物指定の底に珍奇を守る発想があるからだ、と理由を推定する。だから、いかがわしさは指定の仕方に端的にあらわれる、と追求する。指定は地域指定と種指定に分かれるが。種指定は捕獲が禁止されるだけで、その動植物が棲息する自然の開発・破壊には何ら規制が加えられない、と指摘する。どこにでもいるウグイやウミネコは地域指定とされるところからして、開発の妨げになるものは種指定、観光名所になりそうなもの(あるいはそれ以外役立ちそうもないもの)は地域指定と使い分けされているらしい、と言いにくいことをズバリと言ってのける。うがった意見のように見えて、こう整理されるとわかりやすい。
『日本の天然記念物』にはいちおう提言が出ていることは出ているのだが「おざなりの感がする」と観察し、以下、痛烈な機関銃弾が炸裂する。「もっときっぱりした提言はできないのだろうか」「種指定の問題点をわかっていない大ボケの記述まであったりする」「<美しい自然を守りたい!>(帯のコピー)というならば、『心ないマニア』なぞというチンケな敵だけじゃなく、個別の『大きな敵』を具体的に指摘したってバチはあたらないと思うぞ」
余勢をかって『レッドデータアニマルズ』も斬って捨てる。そもそもレッドデータは名簿でしかない、そんなものはやめろとはいわないが、「ただ、リストだけ作って満足するというやり方が、いかにもお役所的でアホらしい気がするだけである」
文庫版の追記で辛口に拍車がかかる。メダカが絶滅危惧種第二種に指定されたことをとりあげて、「メダカが絶滅しても、だれひとり本当には困らない。自然保護行政のとろさは、人々の無関心と表裏一体なのである」
ズケズケと言ってのけるにもかかわらず嫌みを感じさせないのは、軽いノリの文体のせいだ。<カラオケ化する文学>の5編から実例を引く。
「にしても一読、ふーん、やるじゃん、という感じがした」
「やくざ映画以外にも、こんな価値観が意味をもつ世界がまだあったのか・・・・と思うと、頭がクラクラしてくるぜ」
「まっとうな意見だとは思うけれども、案外逆かも。当節の「文学」をちっとは読んでみたから、『あっ、この程度でいいのね』と思って応募してくるとか・・・・」
「ほらあ、同じでしょ?」
「鮮度で選ぶなら、批評意識のある点を買って、Bグループでしょう。わっかんないな」
くだけた言いまわしで、威勢がよい。著者にならって、「はすっぱ文体」と命名しよう。
その特徴は、第一に、独特の軽快なリズムを醸し出す。
第二に、気のおけない者同士の会話みたいだから、憎まれ口をきいても大人げない反応はとりにくい。紳士淑女ならつつましく口に出さないことを著者があえて口にしても(卑語だって遠慮しない)、紳士淑女の諸君は無視すればよい。
第三に、巷間のはやり言葉(「トレンディ俳優」唐沢寿明)を引用して抵抗感を起こさせないし、時代の表層に密着するポーズをとりやすい。あくまでポーズである。じっさいは流行に身を任せてなんかいない。和して同ぜず。
第四に、軽快な口調は視点を身軽な移動させていることを示す。
こうした軽さは、なだ・いなだのそれの延長にあると思う。また、ざっくばらん調は丸谷才一のライト・エッセイの延長にある。評論の世界で、なだ・いなだや丸谷才一というブルトーザーが整地したから、斎藤美奈子という軽自動車が疾駆できるようになったのだ。
「はすっぱ文体」は軽佻浮薄に見えるが、ときどき啖呵を切ってすごむから油断できない。フットワークは軽いけれど、「蝶のごとく舞い、蜂のごとく刺す」のだ。時にはヘビー級のパンチをくりだす。
個々の書評のタイトルにもこまめにジャブをくらわす。たとえば、哲学がはやりの世相を一刀両断して「哲学ブームの底にあるのは知的大衆のスケベ根性だ」、あるいは『全共闘白書』を論じて「死ぬまでやってなさい。全共闘25年目の同窓会」。
造語(「お役所チック」)や略語(「学まん」=学習まんが)を大量生産して、威勢のよさ、軽快なリズムはいっそう磨きがかかる。
ことに略語は、言葉にまとわりつく情緒を切り捨てて記号化する作用を伴うから、威力を発揮する。
たとえば、聖書の翻訳を論じた2編(「汝、驚くなかれ。いまどきの聖書日本語訳」の教会訳編と個人訳編)。周知のようにキリスト教はカソリック(旧教)とプロテスタント(新教)の二派に大きく分かれる。ここで著者は、旧教を○の中にカ、新教を○の中にプで表記するのだ。マルカとマルプである。唖然、なんたる冒涜。マルビとマル金よりもひどい。
が、各種の翻訳をたんねんに読みこなした上で比較している。見かけによらず、研究熱心なのである。
個人訳をとりあげては、本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』に「被抑圧者・被差別者」の視点を見て、そこからくる翻訳の特徴を拾いだす。「上」の一字があるとないとで超人イエスと人間イエスの違いが出てくる、云々。
「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。(教会訳:新共同訳)
「イエスは湖を歩いて弟子たちのほうへやって来た。(個人:本田訳)
文体に工夫をこらす斎藤美奈子は、他人の文体にも敏感なのだ。
ついでに言うと、中丸明『絵画で読む聖書』に着目した眼は鋭い。この本では、イエスは名古屋弁を話す(「なにをみゃあみゃあ騒いどるだぎゃあ。わしだ、わが身だがね。化物でもなんでもねゃあで」)。爆笑、と笑わせるが、ちゃんと理由はおさえているらしい(イエスの言葉はアラム語、カナン語の方言、日本語で言えば名古屋弁のミャーミャー)。
新訳聖書は、「はじめに言葉があったんし・・・・その言葉が神さまだんし」のようにお筆先ふうに訳すと元のテキストの文体の雰囲気がよく伝わる、と林達夫がすでに指摘していた(「邪教問答」、『林達夫著作集第3巻 無神論としての唯物論』、平凡社、1971)。斎藤美奈子の着想は、意外と正統的だ。
「はすっぱ文体」は、一見あらっぽく見えて、じつは意外と繊細、複雑なニュアンスをはらむ。
<ニッポンという異国>の1編から、以下、引用する。
「バブルの崩壊以後も、食べ物屋のガイドブックは、あいかわらず書店にひしめきあっている。/それらを端から立ち読みしているうちに、じわりと腹が立ってきた。タウン情報誌も旅行ガイドも食べ物屋、食べ物屋、食べ物屋。ったく日本人は金を払ってメシ食う以外に能はないんかい。/店を吟味する前に、書店にあふれるゴミの山をかきわけて、本を吟味しなければならない馬鹿ばかしさ。せめて「料理店」ガイドならぬ「料理店ガイド」ガイドがあったら、類書の洪水状態も少しは緩和されるかな。/というわけで、今回は、わが貧しい食卓もかえりみず、料理店ガイドの読み比べを決行することにした」
これは、「安くてうまい本はどれだ。辛口『料理店批評』批評」の書き出しである。
第一に、軽い俗語調で読ませる語り口で、読者をさっと自分の土俵へ引きこむ。
第二に、問題設定がきわめて明快で、ゆえに書評する目的がすっきりと読者の頭にはいる。思わせぶりなところはひとカケラもない。
第三に、細かいところですでに批評が挿入されている。たとえば「立ち読み」。買ってまで読む本じゃない、と暗にほめのかしているのである。「書店にあふれるゴミ」となれば痛烈。ゴミを書いた著者、刊行した書肆はムカッとくるにちがいない。
第四に、自分の立場を明らかにしている。「わが貧しい食卓」という以上、その道の権威ではないということだ。一介の読み手、そんじょそこらの「小市民」である。この立場を明確にし、かつ、徹底している。
第五に、「『料理店』ガイドならぬ『料理店ガイド』ガイド」などと、対象から等分に距離をおいてまとめて面倒を見る批評法、手の内を見せている。
じじつ、このあとで5冊の本(『東京いい店うまい店』『恨ミシュラン』『いまどき真っ当な料理店』『東京いい店やれる店』『エピキュリアン』)をずらりと並べて標的にし、遠慮会釈のないツッコミを入れている。
ここで第六点を追加するなら、斎藤美奈子はどの本にも妙な思い入れを示さない。愛想がないといえば愛想がないが、公平といえば公平である。このへんの潔癖は買いたい。
□斎藤美奈子『読者は踊る』(文春文庫、2001)
↓クリック、プリーズ。↓