エネルギー政策の見直しの視点は、反原発、環境政策のほか、経済合理性もある。
1997年から、経産省に電力自由化を進める動きがあった。OECDによる「日本はさらに電力を自由化すべきである」というレポートに端を発する。レポートには、OECDに出向中の経産官僚の意向が働いている。
当時の経産省の主流派は、改革派・市場原理派で、電力自由化によって電力会社を組み伏せ、解体しようとした。背景に、米国の巨大エネルギー企業、エンロン社が進めた電力市場原理主義があった。自由化が実現すれば、地域独占の構造が崩され、実質的に経済競争力を失っている原発からの撤退も視野に入れざるを得なくなる。
OECDレポートに続き、佐藤信二・通産大臣が「電力自由化を検討する」と表明した。しかし、佐藤は3回続けて総選挙で落選し、電力会社は政治力を見せつけた。
しかし、大臣が落選しても、実質主導権を握っているのは官僚で、その後も彼らはエンロン社とも連携して自由化実現に動いた。部分的自由化が始まり、自由化が実現する寸前までいったが、カルフォニア州停電(2000年夏)を受けて、電力会社や既得権益を守ろうとする専門家たちが自由化の弊害を主張し、巻き返しに出た。自由化陣営も応戦したが、エンロン社が会計粉飾問題で破綻し、この議論は終結した。
この時点から、電力自由化の核心「発送電分離」は禁句となった。
2004年には、青森県六ヶ所村再処理工場をめぐる議論も起こった。経済的にも技術的にも合理性を欠く高速増殖炉や核燃サイクルを中心とする再処理路線に対し、経産省の事務次官を中心とした経産省キャリア官僚がその見直しを図った。ただし、核燃サイクルは国策という体裁を保ったままブレーキをかけようとする動きだった。
勝俣恒久・東電社長(当時)も再処理路線の見直しを半ば公言していた。しかし、東電が再処理から撤退すれば、施設が集中している青森県との関係が悪化するだけでなく、使用済み核燃料は行き場を失い、六ヶ所再処理工場につぎ込んでいた資金が負債となって圧迫する。東電は再処理から離脱する意志を伝えつつ、経産省に助けを求めたが、経産省・東電それぞれの原子力ムラの抗争の結果、六ヶ所再処理工場は運転に向けて進められることになった。
再処理見直しの動きが霧消した後、経産省内ではバックラッシュが起こった。まさに「安政の大獄」だった。
原子力ムラは、経済的合理性からの理論も完全に押しつぶしてきた。
原子力ムラは、1950年代から進化がない。日本のエネルギー政策は、実質的な議論もなく進んできた。経年劣化と空洞化が進んでいる。
3・11以前、「日本の原発技術は最先端」という神話が語られてきたが、原子力分野で使われるソフトウェアはほぼ米国製だ。
日本の原子力産業を代表する企業として三菱重工、東芝、日立製作所があるが、三菱は米国ウェスティングハウス社、東芝・日立は米国ゼネラルエレクトリック社の下請け的存在だった。東芝によるウェスティングハウス社買収(2006年)は、独自技術の未完成を立証する。
この技術面の空虚さは、安全審査面で問題を生んだ。安全審査文書の作成や東電・経産省の確認作業は簡単な語句の確認が行われるだけだし、本番の安全確認もシナリオどおり予定調和で進められる。
津波や地震の可能性、非常用電源がすべて失われてしまうような状況については検証されない。
以上、インタビュイー:飯田哲也(NPO法人環境エネルギー政策研究所長)/インタビュアー:川辺美希「原子力発電というのは、国際社会ではもう終わっているものなんですね」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。ます」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。
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1997年から、経産省に電力自由化を進める動きがあった。OECDによる「日本はさらに電力を自由化すべきである」というレポートに端を発する。レポートには、OECDに出向中の経産官僚の意向が働いている。
当時の経産省の主流派は、改革派・市場原理派で、電力自由化によって電力会社を組み伏せ、解体しようとした。背景に、米国の巨大エネルギー企業、エンロン社が進めた電力市場原理主義があった。自由化が実現すれば、地域独占の構造が崩され、実質的に経済競争力を失っている原発からの撤退も視野に入れざるを得なくなる。
OECDレポートに続き、佐藤信二・通産大臣が「電力自由化を検討する」と表明した。しかし、佐藤は3回続けて総選挙で落選し、電力会社は政治力を見せつけた。
しかし、大臣が落選しても、実質主導権を握っているのは官僚で、その後も彼らはエンロン社とも連携して自由化実現に動いた。部分的自由化が始まり、自由化が実現する寸前までいったが、カルフォニア州停電(2000年夏)を受けて、電力会社や既得権益を守ろうとする専門家たちが自由化の弊害を主張し、巻き返しに出た。自由化陣営も応戦したが、エンロン社が会計粉飾問題で破綻し、この議論は終結した。
この時点から、電力自由化の核心「発送電分離」は禁句となった。
2004年には、青森県六ヶ所村再処理工場をめぐる議論も起こった。経済的にも技術的にも合理性を欠く高速増殖炉や核燃サイクルを中心とする再処理路線に対し、経産省の事務次官を中心とした経産省キャリア官僚がその見直しを図った。ただし、核燃サイクルは国策という体裁を保ったままブレーキをかけようとする動きだった。
勝俣恒久・東電社長(当時)も再処理路線の見直しを半ば公言していた。しかし、東電が再処理から撤退すれば、施設が集中している青森県との関係が悪化するだけでなく、使用済み核燃料は行き場を失い、六ヶ所再処理工場につぎ込んでいた資金が負債となって圧迫する。東電は再処理から離脱する意志を伝えつつ、経産省に助けを求めたが、経産省・東電それぞれの原子力ムラの抗争の結果、六ヶ所再処理工場は運転に向けて進められることになった。
再処理見直しの動きが霧消した後、経産省内ではバックラッシュが起こった。まさに「安政の大獄」だった。
原子力ムラは、経済的合理性からの理論も完全に押しつぶしてきた。
原子力ムラは、1950年代から進化がない。日本のエネルギー政策は、実質的な議論もなく進んできた。経年劣化と空洞化が進んでいる。
3・11以前、「日本の原発技術は最先端」という神話が語られてきたが、原子力分野で使われるソフトウェアはほぼ米国製だ。
日本の原子力産業を代表する企業として三菱重工、東芝、日立製作所があるが、三菱は米国ウェスティングハウス社、東芝・日立は米国ゼネラルエレクトリック社の下請け的存在だった。東芝によるウェスティングハウス社買収(2006年)は、独自技術の未完成を立証する。
この技術面の空虚さは、安全審査面で問題を生んだ。安全審査文書の作成や東電・経産省の確認作業は簡単な語句の確認が行われるだけだし、本番の安全確認もシナリオどおり予定調和で進められる。
津波や地震の可能性、非常用電源がすべて失われてしまうような状況については検証されない。
以上、インタビュイー:飯田哲也(NPO法人環境エネルギー政策研究所長)/インタビュアー:川辺美希「原子力発電というのは、国際社会ではもう終わっているものなんですね」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。ます」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。
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