語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>つぶされたエネルギー政策見直し議論

2012年03月05日 | 震災・原発事故
 エネルギー政策の見直しの視点は、反原発、環境政策のほか、経済合理性もある。
 1997年から、経産省に電力自由化を進める動きがあった。OECDによる「日本はさらに電力を自由化すべきである」というレポートに端を発する。レポートには、OECDに出向中の経産官僚の意向が働いている。
 当時の経産省の主流派は、改革派・市場原理派で、電力自由化によって電力会社を組み伏せ、解体しようとした。背景に、米国の巨大エネルギー企業、エンロン社が進めた電力市場原理主義があった。自由化が実現すれば、地域独占の構造が崩され、実質的に経済競争力を失っている原発からの撤退も視野に入れざるを得なくなる。
 OECDレポートに続き、佐藤信二・通産大臣が「電力自由化を検討する」と表明した。しかし、佐藤は3回続けて総選挙で落選し、電力会社は政治力を見せつけた。
 しかし、大臣が落選しても、実質主導権を握っているのは官僚で、その後も彼らはエンロン社とも連携して自由化実現に動いた。部分的自由化が始まり、自由化が実現する寸前までいったが、カルフォニア州停電(2000年夏)を受けて、電力会社や既得権益を守ろうとする専門家たちが自由化の弊害を主張し、巻き返しに出た。自由化陣営も応戦したが、エンロン社が会計粉飾問題で破綻し、この議論は終結した。
 この時点から、電力自由化の核心「発送電分離」は禁句となった。

 2004年には、青森県六ヶ所村再処理工場をめぐる議論も起こった。経済的にも技術的にも合理性を欠く高速増殖炉や核燃サイクルを中心とする再処理路線に対し、経産省の事務次官を中心とした経産省キャリア官僚がその見直しを図った。ただし、核燃サイクルは国策という体裁を保ったままブレーキをかけようとする動きだった。
 勝俣恒久・東電社長(当時)も再処理路線の見直しを半ば公言していた。しかし、東電が再処理から撤退すれば、施設が集中している青森県との関係が悪化するだけでなく、使用済み核燃料は行き場を失い、六ヶ所再処理工場につぎ込んでいた資金が負債となって圧迫する。東電は再処理から離脱する意志を伝えつつ、経産省に助けを求めたが、経産省・東電それぞれの原子力ムラの抗争の結果、六ヶ所再処理工場は運転に向けて進められることになった。
 再処理見直しの動きが霧消した後、経産省内ではバックラッシュが起こった。まさに「安政の大獄」だった。
 原子力ムラは、経済的合理性からの理論も完全に押しつぶしてきた。

 原子力ムラは、1950年代から進化がない。日本のエネルギー政策は、実質的な議論もなく進んできた。経年劣化と空洞化が進んでいる。
 3・11以前、「日本の原発技術は最先端」という神話が語られてきたが、原子力分野で使われるソフトウェアはほぼ米国製だ。
 日本の原子力産業を代表する企業として三菱重工、東芝、日立製作所があるが、三菱は米国ウェスティングハウス社、東芝・日立は米国ゼネラルエレクトリック社の下請け的存在だった。東芝によるウェスティングハウス社買収(2006年)は、独自技術の未完成を立証する。
 この技術面の空虚さは、安全審査面で問題を生んだ。安全審査文書の作成や東電・経産省の確認作業は簡単な語句の確認が行われるだけだし、本番の安全確認もシナリオどおり予定調和で進められる。
 津波や地震の可能性、非常用電源がすべて失われてしまうような状況については検証されない。

 以上、インタビュイー:飯田哲也(NPO法人環境エネルギー政策研究所長)/インタビュアー:川辺美希「原子力発電というのは、国際社会ではもう終わっているものなんですね」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。ます」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。
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【震災】原発>日本で自然エネルギー発電が進まなかった原因

2012年03月05日 | 震災・原発事故
 日本で自然エネルギー発電が進まなかった原因は、
 (a)最大の原因は、電力会社の独占体制だ。電力会社は、その独占体制が見直されないよう、政治や国民の考え方の汚染を進めてきた。
 (b)経産省も、大規模集中型の電力で日本のエネルギーを賄っていくという方針に立つ。
 (c)その周りを御用学者が取り巻いている。日本の御用学者はろくに勉強していないから、本当の意味での知性ではなく、電力会社や国に対してタイコ持ちをするための、あざとい知性しか持っていない。
 (d)しかも、それを伝えるメディアも、電力会社の潤沢な広告費によって汚染されている。電力会社は、メディアを通して、「原発は安全・安心・クリーン」だと、国民をどんよりした不透明な空気で覆ってきた。

 今回の原発事故で、原子力安全委員会や原子力安全・保安院の中に、原発の安全性を真剣に考えていた専門家がいなかったことが証明された。
 彼らの中に、原発の安全性を科学的・合理的に評価する人がある程度存在していたら、状況は違っていたはずだ。原子力の推進や将来についてきちんと考えていたのなら、一度深刻な事故が起きれば日本の原子力立国路線は致命的な打撃をうける、というところまで想像が及ぶはずだ。ところが、その思考力すら失われていた。研究者の独立した意志に基づいて、安全性を第一として必要な検証・措置をする、その行動すら抑えつける重苦しい空気というものがあるのだ。

 こうした機関の外部でも、日本には「政策知の進化」が起きなかった。
 北欧諸国では、政策知の進化と積み重ねがしっかりある。
 スウェーデンでは、スリーマイル島の原発事故(1979年)を契機として、当時の与党、社会民主党が長らく拒否していた原発国民投票にゴーサインが出て、1980年、ついに国民投票が行われた。この国民投票には、結果よりプロセスにかなり意味があった。当時の18歳以上の成人が、1年間にわたて原子力とエネルギーと環境、また自分たちの社会の未来について徹底的に考え抜いて1票を投じた。選択肢として、イエスかノーではなくて、全面的推進・部分的推進・撤退の3つがあった。投票の結果は、全面的推進が20%以下、その他2つがほぼ同数だった。全面的・部分的推進をとれば原発推進がマジョリティで、部分的推進・撤退をとれば消極派がマジョリティになるという、非常に議論の余地のある結果になった。ただ、そのプロセスがスウェーデン国民のある種のカタルシスとなり、彼らはその結果を受け入れた。
 当時、スウェーデンでは6基の原発が動いていて、6基が建設中だった。当座はその6基を建設するが、2010年までにはすべてを廃止する、という矛盾の塊のような結論になった。そうした矛盾を含めて、スウェーデンの政治文化は、ある種ステージアップした。
 スウェーデンのエネルギー政策においては、1970年代は原発推進か反対かの二項対立だった。二項対立は、ディベートで論破すればよい、勝つか負けるかの政治文化だ。そうした政治モードから、マルチステークスホルダーが協力して問題を解決していこう、という実務的な政治文化へと変化していった。原子力の安全性を高めるのも、核廃棄物の扱いについても、自然エネルギーを生み出すにしても、ディベートして相手の穴を見つけたところで結論は出ない。具体的にどう改善していくのか、という知恵に結びつけていくための政治に変わった。政治面でのエコロジー的近代化だ。
 原発反対のデモ行進が、そういう知の進化を生んでいった。

 それがベースとなって、スウェーデンでは1980年代から、地方自治体ベースで、熱利用でバイオマスを膨らませる取り組みが始まった。
 デンマークでは、風力発電協同組合という形で、風力発電を普及させる最初の試みが始まった。
 それが、1990年代のドイツのフィードインタリフ(エネルギーの固定価格買い取り制度)や電力自由化、環境税という政策に繋がっていった。
 国際社会では、これまでトップダウン的体制のもとで進められていた環境政策が次々に改められているのに、日本は、とにかく見直しを求める議論を徹頭徹尾、異論として退けてきた。そして、排除する側は、中身がからっぽだから、何も生み出さない。壮大なる空洞と、外側から異論を入れさせない鉄壁の守りという構造が、ずっと続いてきた。

 以上、インタビュイー:飯田哲也(NPO法人環境エネルギー政策研究所長)/インタビュアー:川辺美希「原子力発電というのは、国際社会ではもう終わっているものなんですね」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。ます」(『私たちは原発を止めるには日本を変えなければならないと思っています。』、ロッキング・オン、2011)に拠る。
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