『原発をどうするか、みんなで決める』の5テーマのうち、なぜ原発をめぐる国民投票が必要なのか、という設問に係る飯田哲也・市民グループ「みんなで決めよう「原発」国民投票」賛同人/NPO法人環境エネルギー政策研究所長の意見は、このブログでもすでに伝えた【注】。
要するに、従来型の代議制民主主義だけで、現代社会に広がっている多様なリスクに係る問題を決定できない。新しい政治、ウルリッヒ・ベックのいわゆる「サブ政治」が求められている、というものだ。そして、補完的回路の重要な一つとして国民投票がある、と。
これに続く(2)から(5)までの問いに対する飯田・賛同人/所長の見解を、以下、追ってみたい。
【注】「【震災】原発>政党政治で「原発」が争点化されない理由 ~「原発」国民投票~」
(2)日本の政治文化を変えなくてはならない
現代社会の複雑化やリスク社会化は世界で共通して進んでいる。どの国でも代議制への補完的回路が必要とされているが、日本の政治の機能不全ぶりをみると、補完的回路は殊にこの国で必要とされている。
政治家が国民投票になぜこれほど反発するかといえば、①物事を決める権利を奪われることへの恐怖心、②強烈な愚民意識がある。①と②が不可分となっていることが、ほとんどの党が国民投票に反対している一番の原因だろう。
国民の成熟度も問われている。国民投票で正しい答が出ないのではないか、という反対論があるが、現代社会において「正しい答」が確固として存在すると考えるのはナンセンスだ。また、自分に賛成する意見を言わない人たちを徹底的に排除し、議論しようともしない政治文化が日本では強い。
1980年、スウェーデンにおける「原発」国民投票の選択肢は3つだった。(a)原発推進、(b)建設中の6基はつくるが長期的には無くしていく、(c)原発廃止。票はおおむね3つに分かれ、(a)と(b)をとれば原発推進が多数、(b)と(c)をとれば脱原発が多数という玉虫色の結果に終わった。
このように社会は極めて複雑で、黒白で単純に割り切れない。出される結論は、これらの間の組み合わせでしかない。完全に自分の思い通りになる、というようなことはない。そうした複雑系の社会に私たちは生きている。そのなかで一つ一つ選択していかなくてはならない。
だから、一歩引いたところから社会を立体的に見る成熟性を国民の側も持たなくてはならない。その結論は、その時点における暫定的なものでしかない。自分自身も一歩譲り合いながら合意し、その積み重ねの上に、たえずその次に向けて社会を進めていかなくてはならない。
国民投票がそうした成熟した政治文化をつくるきっかけになれば、と思う。
(3)ポピュリズムという批判にはこう答える
ポピュリズムという批判そのものが愚民意識と表裏一体だ。さらに、「ポピュリズム」というレッテル貼り以外に、国民投票を批判する言葉を持たない思考停止があるのではないか。
社会の複雑性ということを政治家や官僚やメディアはまったく理解していない。ために、国民投票への要求がなぜ出てくるか、まるでわからない。
スウェーデンでの国民投票(1980年)は、その前数年間、実施するか否かでめていた。スリーマイル島原発事故(1979年)が起こると、与党(社会民主党)は国民投票を実施した。投票まで1年間かけて、18歳以上の国民が徹底的に学習した。その過程ですべての国民が自己教育され、当事者性を持つようになった。
国民投票においては、結論よりもこうしたプロセスが大事だ。この期間は、国民がアップグレードするための極めて重要な期間だ。日本でも原発を国民投票にかけるまで1年ぐらい時間があったほうがいい。徹底的に議論して考え抜く1年間だ。ポピュリズムになどなるわけがない。
今抜け落ちているのは、どういう社会を目指すか、という議論だ。価値観が多様化するなかで、どうやって物事を決めていくか。そこが問われている。そのときに求められる考え方は「補完性原理」だ。(a)基本的には個人の意思決定に委ねる。(b)個人の手に負えない問題は共同体(身近な社会)に委ねる。(c)共同体でも無理な問題はその上の社会に委ねる(社会の多層構造)。(d)国は最後になって出てくる。
補完性原理のためには、日本の統治原理を根本から変えなくてはならない。
(4)新しい市民自治をスタートできるか
スウェーデンの経験を踏まえて言えば、国民投票によって政治と政策の中身がワンステップ、アップする。
1970年代のスウェーデンでは、原発絶対推進と絶対反対の二項対立があった。ガチンコ勝負で、互いの理論家が相手のアラを徹底的に探し出す。結果として、それは何も生まない。
1980年の国民投票では、結果はどちらが勝ったか分からないものだった。しかし、推進派も反対派も一種のカタルシスのようなものが得られた。同時に、対立的な議論だけではなく、議論を通じて何かをうまなくてはならない、という意識が広がった。
社会を一つ前に進めるには、意見は違っても相手のよい部分を取り入れて生み出す、といった発想が必要だ。国民投票を経て、建設的で創造的な文化が生まれた。
当時は、市場主義が世界を席巻し始めたころだったが、経済的な環境政策の手法が開発されていった。<例>環境税のように市場主義のなかに環境政策を埋め込んだり、NOx課徴金のように環境政策のなかに市場メカニズムを入れ込んでいく。
これも建設的な文化が生み出したものだ。こうして社会のなかで知識創造が積み上がっていった。
スウェーデンが30年前に経験したこの転換を、日本も成し遂げることができるのか。その大きな節目に私たちは立っている。
(5)「原発」国民投票をどうやって実現させるか
スウェーデンでは、自国での事故ではなく、米国の事故を見て国民投票の実施に踏み切った。福島の事故を経て、ドイツではすぐに政策転換が起きた。昨年6月にはイタリアで国民投票が行われて脱原発の意思が明確になった。それに対し、日本では自国で事故が起きたというのに、動きが大きくならない。不思議だ。
政治家も官僚も、今起きていることの深刻さをわかっていないのではないか。事故がまだ収束できずに放射性物質が漏れていることを、本当に理解しているのか。
官僚、政治家、経済界、マスコミのあまりの認識の欠如、危機意識の欠如にそら恐ろしくなる。
国民投票を実現する戦略は,二正面作戦がある。(a)国民投票法を国会に制定させて、次の総選挙のタイミングで実施する。(b)これまでもやってきた自治体レベルの住民投票で、国の原発政策を問う。これを各地で実施する。同時多発またはターゲットを絞って。パイロット的にどこかでまず行ってはどうか。(b)も住民投票条例をつくる必要はあるが、自主投票でもいい。全国一斉にやれば、事実上の国民投票ができる。
大阪市など自治体で、国策である原発を問う住民投票をするならば、具体的に何をどのように問うか、法治国家としての論理的な必然性が必要だ。大きく二つ。
①生命権。福井にある原発が事故を起こせば琵琶湖の水が間違いなく汚染される。それでもいいのか。
②大阪市民は原発がつくった電気を使うことで原発立地地域の住民に危険を与えたくないとして、脱原発条例案の骨格をつくる。その条例案を住民投票にかける。名古屋市と世田谷区は実現の可能性があるかもしれない。
□飯田哲也/今井一/杉田敦/マエキタミヤコ/宮台真司『原発をどうするか、みんなで決める ~国民投票へ向けて~』(岩波ブックレット、2011)
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要するに、従来型の代議制民主主義だけで、現代社会に広がっている多様なリスクに係る問題を決定できない。新しい政治、ウルリッヒ・ベックのいわゆる「サブ政治」が求められている、というものだ。そして、補完的回路の重要な一つとして国民投票がある、と。
これに続く(2)から(5)までの問いに対する飯田・賛同人/所長の見解を、以下、追ってみたい。
【注】「【震災】原発>政党政治で「原発」が争点化されない理由 ~「原発」国民投票~」
(2)日本の政治文化を変えなくてはならない
現代社会の複雑化やリスク社会化は世界で共通して進んでいる。どの国でも代議制への補完的回路が必要とされているが、日本の政治の機能不全ぶりをみると、補完的回路は殊にこの国で必要とされている。
政治家が国民投票になぜこれほど反発するかといえば、①物事を決める権利を奪われることへの恐怖心、②強烈な愚民意識がある。①と②が不可分となっていることが、ほとんどの党が国民投票に反対している一番の原因だろう。
国民の成熟度も問われている。国民投票で正しい答が出ないのではないか、という反対論があるが、現代社会において「正しい答」が確固として存在すると考えるのはナンセンスだ。また、自分に賛成する意見を言わない人たちを徹底的に排除し、議論しようともしない政治文化が日本では強い。
1980年、スウェーデンにおける「原発」国民投票の選択肢は3つだった。(a)原発推進、(b)建設中の6基はつくるが長期的には無くしていく、(c)原発廃止。票はおおむね3つに分かれ、(a)と(b)をとれば原発推進が多数、(b)と(c)をとれば脱原発が多数という玉虫色の結果に終わった。
このように社会は極めて複雑で、黒白で単純に割り切れない。出される結論は、これらの間の組み合わせでしかない。完全に自分の思い通りになる、というようなことはない。そうした複雑系の社会に私たちは生きている。そのなかで一つ一つ選択していかなくてはならない。
だから、一歩引いたところから社会を立体的に見る成熟性を国民の側も持たなくてはならない。その結論は、その時点における暫定的なものでしかない。自分自身も一歩譲り合いながら合意し、その積み重ねの上に、たえずその次に向けて社会を進めていかなくてはならない。
国民投票がそうした成熟した政治文化をつくるきっかけになれば、と思う。
(3)ポピュリズムという批判にはこう答える
ポピュリズムという批判そのものが愚民意識と表裏一体だ。さらに、「ポピュリズム」というレッテル貼り以外に、国民投票を批判する言葉を持たない思考停止があるのではないか。
社会の複雑性ということを政治家や官僚やメディアはまったく理解していない。ために、国民投票への要求がなぜ出てくるか、まるでわからない。
スウェーデンでの国民投票(1980年)は、その前数年間、実施するか否かでめていた。スリーマイル島原発事故(1979年)が起こると、与党(社会民主党)は国民投票を実施した。投票まで1年間かけて、18歳以上の国民が徹底的に学習した。その過程ですべての国民が自己教育され、当事者性を持つようになった。
国民投票においては、結論よりもこうしたプロセスが大事だ。この期間は、国民がアップグレードするための極めて重要な期間だ。日本でも原発を国民投票にかけるまで1年ぐらい時間があったほうがいい。徹底的に議論して考え抜く1年間だ。ポピュリズムになどなるわけがない。
今抜け落ちているのは、どういう社会を目指すか、という議論だ。価値観が多様化するなかで、どうやって物事を決めていくか。そこが問われている。そのときに求められる考え方は「補完性原理」だ。(a)基本的には個人の意思決定に委ねる。(b)個人の手に負えない問題は共同体(身近な社会)に委ねる。(c)共同体でも無理な問題はその上の社会に委ねる(社会の多層構造)。(d)国は最後になって出てくる。
補完性原理のためには、日本の統治原理を根本から変えなくてはならない。
(4)新しい市民自治をスタートできるか
スウェーデンの経験を踏まえて言えば、国民投票によって政治と政策の中身がワンステップ、アップする。
1970年代のスウェーデンでは、原発絶対推進と絶対反対の二項対立があった。ガチンコ勝負で、互いの理論家が相手のアラを徹底的に探し出す。結果として、それは何も生まない。
1980年の国民投票では、結果はどちらが勝ったか分からないものだった。しかし、推進派も反対派も一種のカタルシスのようなものが得られた。同時に、対立的な議論だけではなく、議論を通じて何かをうまなくてはならない、という意識が広がった。
社会を一つ前に進めるには、意見は違っても相手のよい部分を取り入れて生み出す、といった発想が必要だ。国民投票を経て、建設的で創造的な文化が生まれた。
当時は、市場主義が世界を席巻し始めたころだったが、経済的な環境政策の手法が開発されていった。<例>環境税のように市場主義のなかに環境政策を埋め込んだり、NOx課徴金のように環境政策のなかに市場メカニズムを入れ込んでいく。
これも建設的な文化が生み出したものだ。こうして社会のなかで知識創造が積み上がっていった。
スウェーデンが30年前に経験したこの転換を、日本も成し遂げることができるのか。その大きな節目に私たちは立っている。
(5)「原発」国民投票をどうやって実現させるか
スウェーデンでは、自国での事故ではなく、米国の事故を見て国民投票の実施に踏み切った。福島の事故を経て、ドイツではすぐに政策転換が起きた。昨年6月にはイタリアで国民投票が行われて脱原発の意思が明確になった。それに対し、日本では自国で事故が起きたというのに、動きが大きくならない。不思議だ。
政治家も官僚も、今起きていることの深刻さをわかっていないのではないか。事故がまだ収束できずに放射性物質が漏れていることを、本当に理解しているのか。
官僚、政治家、経済界、マスコミのあまりの認識の欠如、危機意識の欠如にそら恐ろしくなる。
国民投票を実現する戦略は,二正面作戦がある。(a)国民投票法を国会に制定させて、次の総選挙のタイミングで実施する。(b)これまでもやってきた自治体レベルの住民投票で、国の原発政策を問う。これを各地で実施する。同時多発またはターゲットを絞って。パイロット的にどこかでまず行ってはどうか。(b)も住民投票条例をつくる必要はあるが、自主投票でもいい。全国一斉にやれば、事実上の国民投票ができる。
大阪市など自治体で、国策である原発を問う住民投票をするならば、具体的に何をどのように問うか、法治国家としての論理的な必然性が必要だ。大きく二つ。
①生命権。福井にある原発が事故を起こせば琵琶湖の水が間違いなく汚染される。それでもいいのか。
②大阪市民は原発がつくった電気を使うことで原発立地地域の住民に危険を与えたくないとして、脱原発条例案の骨格をつくる。その条例案を住民投票にかける。名古屋市と世田谷区は実現の可能性があるかもしれない。
□飯田哲也/今井一/杉田敦/マエキタミヤコ/宮台真司『原発をどうするか、みんなで決める ~国民投票へ向けて~』(岩波ブックレット、2011)
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