2012年2月25日、東京都内で「民衆法廷」が開催された【注1】。
7人が意見を陳述し、東電や政府の罪と無責任を炙りだした。多くの人が責任者の処罰を求めた。「大戦後、『平和と人道に対する罪』という考え方が生まれたように、『人間と自然の尊厳を破壊した罪』という新たな概念をつくってでも、この前代未聞の罪を裁いてほしい」と訴えた人もいた。
河合弘之・弁護士/検事団長は、事態の異常さを強調した。「最近のオリンパス事件など社会的影響の大きな企業の不祥事には、検察や警察が乗り出す。東電に対してはなぜ動かないのか。国策遂行を担った企業への遠慮があるのではないか。原発再稼働にストップをかけ、原発災害を二度と起こさないためにも、民衆法廷を通じて厳しく責任を追及していきたい、と」
民衆法廷には、高橋哲也・東京大学大学院総合文化研究科教授も承認として出廷し、主尋問と反対尋問を受けた。その著書『犠牲のシステム 福島・沖縄』が「証拠採用」されたからだ。その際にただされた2点について、以下、改めて説明する。
(1)「原発ムラ」の責任と一般市民の責任
今回の事故の第一義的責任は「原子力ムラ」の構成員にあるのは明白だが、原発稼働を許してきた市民にも、原発の地元住民にも責任がある。では、自らも責任を負う者が他者の責任を追及することは許されるか。
「総懺悔論」に陥らないためにも、責任の質と程度の相違を明確にしなければならない。(a)安全対策を怠りながら絶対安全を騙り、事故を招いた原発システムの責任者たちの罪と、(b)電力消費者としてそれを受容してきた一般市民の責任は別ものだ。
(a)は、法的責任を問われうるが、(b)の責任を問う者はいない。騙した者と騙された者があるとすれば、騙された者には騙された責任があるが、騙した責任と騙された責任は違う。
騙された者は、そのことに気づいたならば、騙した者の責任を追及する権利がある。ドイツ連邦共和国は、ナチス犯罪人の訴追を自国の司法で行ってきた。1945年の敗戦後、日本人は侵略や植民地支配の責任者をみずから裁くべきではなかったか。
(2)原発という「犠牲のシステム」
原発は「犠牲のシステム」だ。犠牲のシステムとは、或る者たちの利益が他の者たちの生活(生命・健康・日常・財産・尊厳・希望、等)の犠牲の上に生み出され、維持されるシステムだ。
原発推進論者は、次のように主張するだろう。・・・・しかし、国家・社会の共同体を運営していくためには、誰かが嫌なことを引き受ける必要があるのではないか。その代わり、一方的な犠牲にしないよう見返り(<例>原発であれば電源三法交付金)を与えてバランスをとれば、犠牲のシステムにも一定の合理性があるのではないか。しかも、原発政策は議会制民主主義のもとで成立している。それをなぜ止めなければならないのか。
「犠牲」の意味によっては、このようなシステムは、あまねく存在しているとも言える。人は動植物を食べ、その「犠牲」の上に生存を維持する。その意味では、人類は犠牲のシステムの中にあるとも言える。
だが、ここでさしあたり問題になるのは、「犠牲」が申告な人権侵害である場合だ。
原発は、苛酷事故や被曝労働等により、生存権・幸福追求権など基本的人権を脅かし、侵害する。だからこそ、法的責任も追及されるのだ。
民主主義の手続きを踏んでいても、人権を侵害すれば罪に問われるのは当然だ。ナチスドイツの政策が典型例だ。
電源三法交付金は、交付後に生じる人権侵害を埋め合わせるものではない【注2】。交付金は、苛酷事故が起きた場合の賠償金の前払いではない。住民は、そのような事故は「起こりえない」と言われ、安全を前提に原発と住んできた。だからこそ、「騙された」ということになる。
いくら莫大な交付金を受け取り、立派な施設を造っても、苛酷事故で住めなくなれば元も子もない。
さらに、苛酷事故は、交付金の恩恵をほとんど(または全く)受けない地域にまで人権侵害を及ぼす。
こうした犠牲のシステムは、やはり正当化できない。
【注1】「【震災】原発>原発を問う民衆法廷」
【注2】沖縄県が振興費を受け取っていても、米兵の犯罪は犯罪だ。
以上、高橋哲也「「民衆法廷」に出廷して 犠牲のシステム、責任のゆくえ」(「朝日ジャーナル」2012年3月20日臨時増刊号)に拠る。
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7人が意見を陳述し、東電や政府の罪と無責任を炙りだした。多くの人が責任者の処罰を求めた。「大戦後、『平和と人道に対する罪』という考え方が生まれたように、『人間と自然の尊厳を破壊した罪』という新たな概念をつくってでも、この前代未聞の罪を裁いてほしい」と訴えた人もいた。
河合弘之・弁護士/検事団長は、事態の異常さを強調した。「最近のオリンパス事件など社会的影響の大きな企業の不祥事には、検察や警察が乗り出す。東電に対してはなぜ動かないのか。国策遂行を担った企業への遠慮があるのではないか。原発再稼働にストップをかけ、原発災害を二度と起こさないためにも、民衆法廷を通じて厳しく責任を追及していきたい、と」
民衆法廷には、高橋哲也・東京大学大学院総合文化研究科教授も承認として出廷し、主尋問と反対尋問を受けた。その著書『犠牲のシステム 福島・沖縄』が「証拠採用」されたからだ。その際にただされた2点について、以下、改めて説明する。
(1)「原発ムラ」の責任と一般市民の責任
今回の事故の第一義的責任は「原子力ムラ」の構成員にあるのは明白だが、原発稼働を許してきた市民にも、原発の地元住民にも責任がある。では、自らも責任を負う者が他者の責任を追及することは許されるか。
「総懺悔論」に陥らないためにも、責任の質と程度の相違を明確にしなければならない。(a)安全対策を怠りながら絶対安全を騙り、事故を招いた原発システムの責任者たちの罪と、(b)電力消費者としてそれを受容してきた一般市民の責任は別ものだ。
(a)は、法的責任を問われうるが、(b)の責任を問う者はいない。騙した者と騙された者があるとすれば、騙された者には騙された責任があるが、騙した責任と騙された責任は違う。
騙された者は、そのことに気づいたならば、騙した者の責任を追及する権利がある。ドイツ連邦共和国は、ナチス犯罪人の訴追を自国の司法で行ってきた。1945年の敗戦後、日本人は侵略や植民地支配の責任者をみずから裁くべきではなかったか。
(2)原発という「犠牲のシステム」
原発は「犠牲のシステム」だ。犠牲のシステムとは、或る者たちの利益が他の者たちの生活(生命・健康・日常・財産・尊厳・希望、等)の犠牲の上に生み出され、維持されるシステムだ。
原発推進論者は、次のように主張するだろう。・・・・しかし、国家・社会の共同体を運営していくためには、誰かが嫌なことを引き受ける必要があるのではないか。その代わり、一方的な犠牲にしないよう見返り(<例>原発であれば電源三法交付金)を与えてバランスをとれば、犠牲のシステムにも一定の合理性があるのではないか。しかも、原発政策は議会制民主主義のもとで成立している。それをなぜ止めなければならないのか。
「犠牲」の意味によっては、このようなシステムは、あまねく存在しているとも言える。人は動植物を食べ、その「犠牲」の上に生存を維持する。その意味では、人類は犠牲のシステムの中にあるとも言える。
だが、ここでさしあたり問題になるのは、「犠牲」が申告な人権侵害である場合だ。
原発は、苛酷事故や被曝労働等により、生存権・幸福追求権など基本的人権を脅かし、侵害する。だからこそ、法的責任も追及されるのだ。
民主主義の手続きを踏んでいても、人権を侵害すれば罪に問われるのは当然だ。ナチスドイツの政策が典型例だ。
電源三法交付金は、交付後に生じる人権侵害を埋め合わせるものではない【注2】。交付金は、苛酷事故が起きた場合の賠償金の前払いではない。住民は、そのような事故は「起こりえない」と言われ、安全を前提に原発と住んできた。だからこそ、「騙された」ということになる。
いくら莫大な交付金を受け取り、立派な施設を造っても、苛酷事故で住めなくなれば元も子もない。
さらに、苛酷事故は、交付金の恩恵をほとんど(または全く)受けない地域にまで人権侵害を及ぼす。
こうした犠牲のシステムは、やはり正当化できない。
【注1】「【震災】原発>原発を問う民衆法廷」
【注2】沖縄県が振興費を受け取っていても、米兵の犯罪は犯罪だ。
以上、高橋哲也「「民衆法廷」に出廷して 犠牲のシステム、責任のゆくえ」(「朝日ジャーナル」2012年3月20日臨時増刊号)に拠る。
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