語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>政党政治で「原発」が争点化されない理由 ~「原発」国民投票~

2012年03月27日 | 震災・原発事故
 『原発をどうするか、みんなで決める』は、市民グループ「みんなで決めよう「原発」国民投票」の賛同人5人(飯田哲也・今井一・杉田敦・マエキタミヤコ・宮台真司)の座談会の記録だ。
 テーマは5つ。
(1)政党政治で「原発」が争点化されない理由
(2)日本の政治文化を変えなくてはならない
(3)ポピュリズムという批判にはこう答える
(4)新しい市民自治をスタートできるか
(5)「原発」国民投票をどうやって実現させるか

 ここでは(1)を取り上げる。
 まず、なぜ原発をめぐる国民投票が必要なのか。

(a)杉田敦
 このテーマが代議制や政党政治のなかで十分に争点化されないからだ。実際、民主党代表選挙の際にも、候補者のあいだでは原発をめぐる議論はほとんど行われなかった。今後、総選挙などがあっても原発をめぐる対立軸が政党間につくられることは望めない。私たちの現在の暮らし、これからの生き方に関わる重要な問題、原発が政党政治で問われないならば、国民投票で問うしかない。

(b)宮台真司
 脱原発解散・総選挙が近いうちにできる状況にないし、(a)のとおり政党政治では争点化されないので、国民投票法の是非を問うべきだ。
 なぜ日本の政党政治では原発が争点化されないか。電力の地域独占供給体制のもとで維持されている権益が理由だ。電力会社による多額の広告費がメディアを半ば支配し、国民世論にバイアスがかけられてきたからだ・・・・という説は間違いではないが、問題はもっと深刻だ。
 あらゆる権益やコミュニケーションの基盤が、電力の地域独占供給体制に依存している。電力会社の影響力が、政治・経済・社会・文化全体に根を張っている。広告費は氷山の一角だ。システム全体が電力会社に依存する体制ゆえに、問題が争点化されない。原発政策の合理性は、技術的なものではなく社会的なものだ。
 原発が技術的合理性があって(コスト的、リスク的、環境的に合理的だから)固執されているのではない。地域独占供給体制を維持するために固執されている。国家は、電源三法を用いて、電力コストに算入されない膨大な国家予算で原発をつくらせる。原発建設費は膨大だ。投資回収に30年以上かかる。投資回収を支えるべく電力会社の地域独占供給体制を維持するのが当たり前になる。そういう仕掛けだ。
 これはもはや政治文化の問題だ。原発をやめられない社会、わけても政治文化を何とかするために国民投票法に期待する。日本に民主主義をもたらすためにこそ、国民投票法が必要だ。
 日本には民主主義はない。民主主義には、「多数派政治」とともに「共同体自治」の側面がある。日本には後者はない。
 民主主義的な近代国家は「引き受けて考える社会」でなくてはならないが、日本は「任せて文句を言う社会」だ。また、「知識を尊重する社会」でなくてはならないが、日本は「空気に縛られる社会」だ。国民が「任せて文句を言う」だけで、任せられた側が「空気に縛られる」のでは、国家は出鱈目になる。
 社会全体に「参加と包摂」に支えられた共同体自治を拡げる必要がある。共同体の内部が「引き受けて考える」作法と「知識を尊重する」作法を貫徹できなければならない。
 今のところ、脱原発&再生可能エネルギー化が、こうした「依存から自立へ」とでも呼ぶべき民主主義の樹立、すなわち共同体自治の樹立をめぐる問題であることを、ちゃんと意識する日本人は少数だ。
 このままでは、日本の再生可能エネルギー化運動も、「エネルギーの共同体自治」から、独占的電力会社による電源選択の問題にすり替えられる。かくて、総括原価方式&地域独占供給体制が維持される。その結果、「特別措置法×特別会計×特殊法人(天下り先)×金銭配分」という日本独特の政策的誘導方式が手つかずのまま残る。政治家も国民も、巨大な行政官僚システムに手が出せないままになる。
 その意味で、脱原発&自然エネルギー化問題は、統治体制や経済体制全体に関わる巨大な問題だ。郵政選挙のようなシングル・イシュー(単一争点問題)ではない。

(c)飯田哲也
 国民投票が必要なのは、従来の政治が機能していないからだ。現代社会のあり方と政治のモードがまったく合わなくなっている。今の政治は、依然として富を分け合うためという古い時代の政治の延長線上にある。しかし、複雑化や高度科学技術の進展が加速する現代では、さまざまなリスクをどう分配するかという合意形成が新しい時代の政治における大きなテーマの一つでなくてはならない。
 産業社会的な時代には、限られたエリートだけで富の分配を考えていればよかった。現代では、高度な科学技術が関係する巨大なリスクの分配について、一部のエリートたちに任せることはできなくなった。
 社会も経済も科学技術も複雑化が加速するなかで、相対的に政治家はことごとく「素人」になってしまい、原子力の問題一つをとっても扱えるわけがない。他方、一般の人々の教育水準が高まり、個々人がそれぞれ情報を入手して考えを深め、それぞれが自分で決めたいと考えている。誰もがほとんどの分野でプロではなく、誰もが何らかの分野でプロだ、という時代に入っている。
 従来型の代議制民主主義だけで、現代社会に広がっている多様なリスクに係る問題を決定できない。新しい政治、ウルリッヒ・ベックのいわゆる「サブ政治」が求められている。
 北欧では、こうした現代社会のリスク化に対し、コンセンサス会議やシナリオ・ワークショップなど、補完的な政治回路(熟議民主主義)が模索されてきている。こうした補完的回路の重要な一つとして、国民投票がある。
 原発問題は、放射能汚染や放射性廃棄物を通じて、途轍もないリスクを現在のみならず未来の世代に追わせる。これをどうするかを一人一人が考えなくてはならない。極めて国民投票にふさわしいテーマだ。

□飯田哲也/今井一/杉田敦/マエキタミヤコ/宮台真司『原発をどうするか、みんなで決める ~国民投票へ向けて~』(岩波ブックレット、2011)

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