アートからモードまで手がける世界的写真家、フィンは、デジタル処理を駆使して「現実」を改変し、これまでにない世界を創造する。しかし、活動拠点の
デュッセルドルフでは常時どこでも注目を浴び、携帯電話を手放せず、唯一心を落ち着かせるのはイヤホンから流れくる音楽だけだった。
多忙なためか、眠りは浅い。そして、いつも死がからむ夢の始まりで目覚める。
とある日、車を走らせながらあたりを撮影していると、ある男の姿がカメラに跳び込んできた。すると、たちまち車はコントロールを失い、あわや大事故の寸前で停まった。
損壊した車を捨て、フラリと立ち寄ったパブで、フィンはさらに奇妙な体験をした。
フィンは旅立つ決意を固めた。たまたま目撃した船に記されていたパレルモに。
パレルモでミラをモデルに撮影後、スタッフと別れ、「休暇」に入った。
そこで、不思議な男から弓矢で執拗につけ狙われた。
街の写真家とも出会う。年配の彼女は、死者の記憶を映像にとどめる、という。彼の場合は、と問われて、今は「混乱」だ、とフィンは答える。
街の一角で眠りこんでいたフィンが目覚めると、彼をスケッチする女性が目に入った。お茶に誘うが、自分の名「フラヴィア」を残して、彼女はスクーターで去る。
街をさまよい歩いているうちに、そのスクーターが目に入った。美術館に足を踏みいれると、フラヴィアは巨大な壁画「死の勝利」を修復中だった。絵の中では、王の背に死神から放たれた矢が突き刺さり、民衆は、どうか矢を抜かずにそのままにしておいてくれ、と祈るのだ。
死神の顔も修復の対象であり、どう描くかはとても大事だ、とフラヴィアは語る。
彼女もまた、恋人の死に悩んだ過去があった。二人には因縁があったのだ。
矢に襲われたフィンの体験を聞き、フラヴィアは彼をガンジに誘い出す。今は亡き祖母の家に。フラヴィアにとって、安心と幸福を感じさせる唯一の場所なのだ。
そこでついにフィンは、彼をつけ狙う男と対面する。男は死神だった。
*
「パレルモ・シューティング」(2008年、独伊仏)は、ヴィム・ヴェンダース監督が12年ぶりに欧州を舞台に撮り上げた作品だ。
フィン役のカンピーノは、斯界では知られたボーカルらしい。抑えた演技は悪くない。
フラヴィア役のジョヴァンナ・メッツォジョルノは、「コレラの時代の愛」ほか多数の出演作があるが、作品の多くは日本では公開されていない。貴族的な優雅さがある。
死神役のデニス・ホッパーが怪演している。平気で人に矢を放ち、死に引き入れるくせに、自分は解放への出口だ、などと言いくるめる。このあたりの厚かましさは、ホッパーの独擅場だ。死神は人間の内に棲んでいる、などと謎めいた言葉で攪乱させるのも、そうだ。愛されて然るべきなのに忌み嫌われる、と愚痴るのだが、フィンから「何か手助けできることはないか」と歩み寄られると、不意に表情が変わり、穏やかに別れをフィンに告げる。荘重に、「次に会うときが最後だ」と。
ホッパーは嫌いなタイプだが、いい役者だ。
死と真っ向から対決してこそ、生がその意義を顕す・・・・といった哲学は、ここでは措こう。
むしろ、ホッパー演じる死神が、(ネガのある)写真は生死を象徴する、と持ち上げたとき、フィンが「今はデジタルの時代だ」とそっけなく退けたシーンが興味深い。死神は、うまく言葉を返せない。
そもそも、この映画で死神が放つ矢はデジタル処理されている。
21世紀は、死が医療機関でメカニカルに処理される時代だ。畳の上で成仏する人は少ない。そして、葬祭は商業化されている。どこか、画像/映像のデジタル処理と通じるところがあるのではないか。
↓クリック、プリーズ。↓


デュッセルドルフでは常時どこでも注目を浴び、携帯電話を手放せず、唯一心を落ち着かせるのはイヤホンから流れくる音楽だけだった。
多忙なためか、眠りは浅い。そして、いつも死がからむ夢の始まりで目覚める。
とある日、車を走らせながらあたりを撮影していると、ある男の姿がカメラに跳び込んできた。すると、たちまち車はコントロールを失い、あわや大事故の寸前で停まった。
損壊した車を捨て、フラリと立ち寄ったパブで、フィンはさらに奇妙な体験をした。
フィンは旅立つ決意を固めた。たまたま目撃した船に記されていたパレルモに。
パレルモでミラをモデルに撮影後、スタッフと別れ、「休暇」に入った。
そこで、不思議な男から弓矢で執拗につけ狙われた。
街の写真家とも出会う。年配の彼女は、死者の記憶を映像にとどめる、という。彼の場合は、と問われて、今は「混乱」だ、とフィンは答える。
街の一角で眠りこんでいたフィンが目覚めると、彼をスケッチする女性が目に入った。お茶に誘うが、自分の名「フラヴィア」を残して、彼女はスクーターで去る。
街をさまよい歩いているうちに、そのスクーターが目に入った。美術館に足を踏みいれると、フラヴィアは巨大な壁画「死の勝利」を修復中だった。絵の中では、王の背に死神から放たれた矢が突き刺さり、民衆は、どうか矢を抜かずにそのままにしておいてくれ、と祈るのだ。
死神の顔も修復の対象であり、どう描くかはとても大事だ、とフラヴィアは語る。
彼女もまた、恋人の死に悩んだ過去があった。二人には因縁があったのだ。
矢に襲われたフィンの体験を聞き、フラヴィアは彼をガンジに誘い出す。今は亡き祖母の家に。フラヴィアにとって、安心と幸福を感じさせる唯一の場所なのだ。
そこでついにフィンは、彼をつけ狙う男と対面する。男は死神だった。
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「パレルモ・シューティング」(2008年、独伊仏)は、ヴィム・ヴェンダース監督が12年ぶりに欧州を舞台に撮り上げた作品だ。
フィン役のカンピーノは、斯界では知られたボーカルらしい。抑えた演技は悪くない。
フラヴィア役のジョヴァンナ・メッツォジョルノは、「コレラの時代の愛」ほか多数の出演作があるが、作品の多くは日本では公開されていない。貴族的な優雅さがある。
死神役のデニス・ホッパーが怪演している。平気で人に矢を放ち、死に引き入れるくせに、自分は解放への出口だ、などと言いくるめる。このあたりの厚かましさは、ホッパーの独擅場だ。死神は人間の内に棲んでいる、などと謎めいた言葉で攪乱させるのも、そうだ。愛されて然るべきなのに忌み嫌われる、と愚痴るのだが、フィンから「何か手助けできることはないか」と歩み寄られると、不意に表情が変わり、穏やかに別れをフィンに告げる。荘重に、「次に会うときが最後だ」と。
ホッパーは嫌いなタイプだが、いい役者だ。
死と真っ向から対決してこそ、生がその意義を顕す・・・・といった哲学は、ここでは措こう。
むしろ、ホッパー演じる死神が、(ネガのある)写真は生死を象徴する、と持ち上げたとき、フィンが「今はデジタルの時代だ」とそっけなく退けたシーンが興味深い。死神は、うまく言葉を返せない。
そもそも、この映画で死神が放つ矢はデジタル処理されている。
21世紀は、死が医療機関でメカニカルに処理される時代だ。畳の上で成仏する人は少ない。そして、葬祭は商業化されている。どこか、画像/映像のデジタル処理と通じるところがあるのではないか。
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