以下、『エリック・ホッファー・ブック』の「Ⅴ ホッファーを読む」から、書評の二、三を抜粋、要約。
(a) 『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』
①立花隆 : 極上の短編小説以上の仕上がり
めっぽう面白い。彼の人生そのものが、これほど数奇な人生があろうかと思わせるほどに波乱に富んでいるが、それ以上に面白いのが、彼がいろんなところで出会った、数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である。この自伝には、そのような忘れがたい人々との忘れがたい出会いがいっぱいつまっている。その一つ一つが、まるで極上の短編小説以上の仕上がりになっている。
こういった出会いのすべてが彼の哲学的思索のナマの素材になっている。自分自身がそのような不適応者の一人であり、その不適応者にまじって生きつづける中で、「人間社会における不適応者の特異な役割」という、彼の生涯を通じての思索のテーマを発見する。「人間の独自性とは何か」ということを考えつめていくうちに、「人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」ということだと思いあたる。つまり、「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えている」のである。
そして、米国を作った開拓者たちも、実は社会的不適応者であったが故に、家を捨て荒野に向かわざるをえなかった放浪者たち(弱者)だった。それが、米国社会の独特の特質をもたらしている、という考察に導かれていく。
②御厨貴 : 放浪の哲学を実践する姿
『大衆運動』(原著:“The True Believer”)を東大の学生時代の1971年に読んで、警句めいた言いまわしの妙に、青年ならではの感受性の故か、惹かれつつもどこかすっきりしない気分が残った。それから30年を経て、ホッファーと再会した。
カルフォニアでの日銭かせぎの労働と読書と思索が、ホッファーの20歳代の過ごし方である。「歩き、食べ、読み、勉強し、ノートをとるという毎日が、何週間も続いた」「しかし、金がつきたらまた仕事に戻らなければならないし、それが死ぬまで毎日続くかと思うと、私を幻滅させた」
30歳を前にしての自殺未遂行為。毒を飲み走りながら、ある思いに至る。それを「曲がりくねった終わりのな道としての人生」と悟った時、日雇労働者は死に、放浪者としてホッファーは再生する。そして、カルフォニアの放浪者集団を「社会的不適応者(ミスフィット)」と名づけ、「われわれにとって定食につくということは軋轢を生むこと以外の何ものでもなかった」と記す。
そして、放浪者と開拓者とのダイナミックな関係性に気づいた時、ホッファーは高らかにこう言い放つ。「人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」「弱者が演じる特異な役割こそが、人間に独自性を与えているのだ」
放浪に基づく思索の中で、常に導きの糸となるのは、他ならぬ旧約聖書なのだ。「語り手たちによって構想された真実は、真実よりも生き生きとしており、真実よりも真実に近い」とホッファーは述べる。だからこそ、例の弱者は強者に勝つとの文脈において、「『紙は、力あるものを辱めるために、この世の弱気ものを選ばれたり』という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する」と断定できる。
総じてホッファーの言葉は簡潔で、もってまわった言い方をせず、わかりやすい。
小さな本ではあるが、中身はつまっている。米国という移民によって、開拓者によって成立している国でしか、ホッファーのような放浪と独学お哲学者は生まれなかったろう。めめしくなく明るく力強い生き方が、好きだ。
③田中優子 : 知性は「学校教育」ではなく「読書」によって鍛えられる
知性というものはこれほどまでに柔軟で、人間の中に求める強い気持ちさえあれば、いかなる環境、職業、厳しさの中でも得られるものなのだ。知性というものはこれほどまでに自由で、水のように風のように、どんな隙間からでも得られるものなのだ。
ホッファーの人生には3つの特徴がある。
一、生涯独身で通した。それによって、誰からも非難されずにずっと放浪者であり続けることができたし、「将来の心配」というものを一度も持たずにすんだ。彼はいつも働いているわけではなく、当分生活ができるとなると、仕事をせずに読書に打ち込んだ。家庭があったら、そういうことはできない。
二、働きながら、彼は絶え間なく読書し、ものを書き、数学、化学、物理、地理の勉強をし続けた。これらは彼の職業にはまったく関係がないので、職業を得るためでもなければ、将来のためでもない(彼は将来というものをまったく考えない)。この情熱をホッファーは、「筋肉がついてきたという意識が、青年をウェイト・リフティングやレスリングへと駆り立てるように」と表現している。精神が成熟してゆく、思索が構築されてくる、という感覚がホッファーを読書へと駆り立てていったのである。その結果、彼の読書には無駄がなく(暇つぶしではない)、必ず思索へ向かう種類のものだった。
三、人生の不規則性である。ホッファーは定職を持たなかった。彼は自殺未遂のあと、「労働者は死に、放浪者が誕生した」と書いた。「都市労働者の死んだような日常生活」に終止符を打って、彼は季節労働者として各地を転々とする。そして、その中で頻繁に出会った「社会的不適応者」について考察するようになる。そこにホッファーの独自な思想「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えている」という観点が生まれてゆくのである。彼はそのことを核にして、のちに社会哲学者になっていゆく。
人間が強ければ、ほんとうは学校は要らないのだ。「人間」がいて「言葉」があれば、知性はその個々の求める気持ちの強さに応じて身につく。学校という制度が必ずしも知性を育てるわけではない。学校は知に接近する機会にもなるが、知から遠ざかる機会にもなる。
ホッファーの知性は、学校の学問ではなく読書で鍛えた知性なのだ。
(b) 『大衆運動』
①作田啓一 : 恐ろしい書物
本書で取り上げられている「大衆運動」の範囲は広い。原始キリスト教の運動、宗教改革の運動、フランス大革命やロシア革命、ナチズムの運動、明治以降の日本の近代化をめざす運動など、宗教的、政治的、短期的、長期的の多様な運動を包括する。大衆的基礎を餅、「忠実な信者」が参加するかぎり、すべての運動は「大衆運動」と呼ばれる。「忠実な信者」とは誰か。それは自己に失望し、自己から分離した人間であって、共同行動への参加により、新しい生き甲斐を求めようとする者である。
では、人どうして自己から分離するのか。集団の一員であるという意識を失った時か。あるいは創造的な仕事や有益な活動ができない時に、人は自己から分離する。そのような人びとは、大衆運動に献身的に参加することで集団所属意識を取り戻し、理想に殉じていると信じることで自己軽蔑から免れる。
疑問・・・・集団所属が「自己との調査」をかちうる一条件であったとすれば、この条件を失った人が運動体に参加することで回復する自信は、本来の「自己との調和」と同質なものか、異質なものか。
著者は、この問に対して明確には答えていない。ただ、暗示的な回答はある。運動体の「統一は、忠実な信者の相互の兄弟愛から生まれるものではない。忠実な信者が忠誠を捧げるのは、彼の仲間の信者たちではなく全体--教会や、党や、国家--なのである。個人の間にほんとうに誠実な関係が成り立つのは、ゆるい、そして比較的自由な社会のン間かだけである」
集団の二類型を体制と関連させる理論は、このように暗示的、断片的にしか語られていない。そのほか重要な理論の断片が、随所に散らばっていて、読者はこの本の中から多くの示唆を受け取るだろう。
□作品社編集部・編『エリック・ホッファー・ブック 情熱的な精神の軌跡』(作品社、2003)
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【参考】
「【ホッファー】エリック・ホッファー・ブック」
「【言葉】エリック・ホッファーのアフォリズム、その政治学・社会学・心理学 ~『情熱的な精神状態』~」
「【読書余滴】加藤周一自選集全10巻完結」
「書評:『波止場日記』」
(a) 『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』
①立花隆 : 極上の短編小説以上の仕上がり
めっぽう面白い。彼の人生そのものが、これほど数奇な人生があろうかと思わせるほどに波乱に富んでいるが、それ以上に面白いのが、彼がいろんなところで出会った、数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である。この自伝には、そのような忘れがたい人々との忘れがたい出会いがいっぱいつまっている。その一つ一つが、まるで極上の短編小説以上の仕上がりになっている。
こういった出会いのすべてが彼の哲学的思索のナマの素材になっている。自分自身がそのような不適応者の一人であり、その不適応者にまじって生きつづける中で、「人間社会における不適応者の特異な役割」という、彼の生涯を通じての思索のテーマを発見する。「人間の独自性とは何か」ということを考えつめていくうちに、「人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」ということだと思いあたる。つまり、「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えている」のである。
そして、米国を作った開拓者たちも、実は社会的不適応者であったが故に、家を捨て荒野に向かわざるをえなかった放浪者たち(弱者)だった。それが、米国社会の独特の特質をもたらしている、という考察に導かれていく。
②御厨貴 : 放浪の哲学を実践する姿
『大衆運動』(原著:“The True Believer”)を東大の学生時代の1971年に読んで、警句めいた言いまわしの妙に、青年ならではの感受性の故か、惹かれつつもどこかすっきりしない気分が残った。それから30年を経て、ホッファーと再会した。
カルフォニアでの日銭かせぎの労働と読書と思索が、ホッファーの20歳代の過ごし方である。「歩き、食べ、読み、勉強し、ノートをとるという毎日が、何週間も続いた」「しかし、金がつきたらまた仕事に戻らなければならないし、それが死ぬまで毎日続くかと思うと、私を幻滅させた」
30歳を前にしての自殺未遂行為。毒を飲み走りながら、ある思いに至る。それを「曲がりくねった終わりのな道としての人生」と悟った時、日雇労働者は死に、放浪者としてホッファーは再生する。そして、カルフォニアの放浪者集団を「社会的不適応者(ミスフィット)」と名づけ、「われわれにとって定食につくということは軋轢を生むこと以外の何ものでもなかった」と記す。
そして、放浪者と開拓者とのダイナミックな関係性に気づいた時、ホッファーは高らかにこう言い放つ。「人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」「弱者が演じる特異な役割こそが、人間に独自性を与えているのだ」
放浪に基づく思索の中で、常に導きの糸となるのは、他ならぬ旧約聖書なのだ。「語り手たちによって構想された真実は、真実よりも生き生きとしており、真実よりも真実に近い」とホッファーは述べる。だからこそ、例の弱者は強者に勝つとの文脈において、「『紙は、力あるものを辱めるために、この世の弱気ものを選ばれたり』という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する」と断定できる。
総じてホッファーの言葉は簡潔で、もってまわった言い方をせず、わかりやすい。
小さな本ではあるが、中身はつまっている。米国という移民によって、開拓者によって成立している国でしか、ホッファーのような放浪と独学お哲学者は生まれなかったろう。めめしくなく明るく力強い生き方が、好きだ。
③田中優子 : 知性は「学校教育」ではなく「読書」によって鍛えられる
知性というものはこれほどまでに柔軟で、人間の中に求める強い気持ちさえあれば、いかなる環境、職業、厳しさの中でも得られるものなのだ。知性というものはこれほどまでに自由で、水のように風のように、どんな隙間からでも得られるものなのだ。
ホッファーの人生には3つの特徴がある。
一、生涯独身で通した。それによって、誰からも非難されずにずっと放浪者であり続けることができたし、「将来の心配」というものを一度も持たずにすんだ。彼はいつも働いているわけではなく、当分生活ができるとなると、仕事をせずに読書に打ち込んだ。家庭があったら、そういうことはできない。
二、働きながら、彼は絶え間なく読書し、ものを書き、数学、化学、物理、地理の勉強をし続けた。これらは彼の職業にはまったく関係がないので、職業を得るためでもなければ、将来のためでもない(彼は将来というものをまったく考えない)。この情熱をホッファーは、「筋肉がついてきたという意識が、青年をウェイト・リフティングやレスリングへと駆り立てるように」と表現している。精神が成熟してゆく、思索が構築されてくる、という感覚がホッファーを読書へと駆り立てていったのである。その結果、彼の読書には無駄がなく(暇つぶしではない)、必ず思索へ向かう種類のものだった。
三、人生の不規則性である。ホッファーは定職を持たなかった。彼は自殺未遂のあと、「労働者は死に、放浪者が誕生した」と書いた。「都市労働者の死んだような日常生活」に終止符を打って、彼は季節労働者として各地を転々とする。そして、その中で頻繁に出会った「社会的不適応者」について考察するようになる。そこにホッファーの独自な思想「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えている」という観点が生まれてゆくのである。彼はそのことを核にして、のちに社会哲学者になっていゆく。
人間が強ければ、ほんとうは学校は要らないのだ。「人間」がいて「言葉」があれば、知性はその個々の求める気持ちの強さに応じて身につく。学校という制度が必ずしも知性を育てるわけではない。学校は知に接近する機会にもなるが、知から遠ざかる機会にもなる。
ホッファーの知性は、学校の学問ではなく読書で鍛えた知性なのだ。
(b) 『大衆運動』
①作田啓一 : 恐ろしい書物
本書で取り上げられている「大衆運動」の範囲は広い。原始キリスト教の運動、宗教改革の運動、フランス大革命やロシア革命、ナチズムの運動、明治以降の日本の近代化をめざす運動など、宗教的、政治的、短期的、長期的の多様な運動を包括する。大衆的基礎を餅、「忠実な信者」が参加するかぎり、すべての運動は「大衆運動」と呼ばれる。「忠実な信者」とは誰か。それは自己に失望し、自己から分離した人間であって、共同行動への参加により、新しい生き甲斐を求めようとする者である。
では、人どうして自己から分離するのか。集団の一員であるという意識を失った時か。あるいは創造的な仕事や有益な活動ができない時に、人は自己から分離する。そのような人びとは、大衆運動に献身的に参加することで集団所属意識を取り戻し、理想に殉じていると信じることで自己軽蔑から免れる。
疑問・・・・集団所属が「自己との調査」をかちうる一条件であったとすれば、この条件を失った人が運動体に参加することで回復する自信は、本来の「自己との調和」と同質なものか、異質なものか。
著者は、この問に対して明確には答えていない。ただ、暗示的な回答はある。運動体の「統一は、忠実な信者の相互の兄弟愛から生まれるものではない。忠実な信者が忠誠を捧げるのは、彼の仲間の信者たちではなく全体--教会や、党や、国家--なのである。個人の間にほんとうに誠実な関係が成り立つのは、ゆるい、そして比較的自由な社会のン間かだけである」
集団の二類型を体制と関連させる理論は、このように暗示的、断片的にしか語られていない。そのほか重要な理論の断片が、随所に散らばっていて、読者はこの本の中から多くの示唆を受け取るだろう。
□作品社編集部・編『エリック・ホッファー・ブック 情熱的な精神の軌跡』(作品社、2003)
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【参考】
「【ホッファー】エリック・ホッファー・ブック」
「【言葉】エリック・ホッファーのアフォリズム、その政治学・社会学・心理学 ~『情熱的な精神状態』~」
「【読書余滴】加藤周一自選集全10巻完結」
「書評:『波止場日記』」