(1)オリンピック東京大会開催が決まって、マスメディアは「日本再生のきっかけになる」と騒いだ。
「大会準備のための投資が、日本経済にあらたな需要をもたらすと期待される」という意味だ。事実、オリンピックの経済効果に係る分析が、その後いくつも発表された。「アベノミクスの第4の矢になる」という意見も表明された。
大多数の日本人にとって、オリンピックとは、競技場や付属施設が建設されること、道路・鉄道などの関連公共事業が行われること、ホテルが増設され、世界中から観光客が押し寄せること・・・・であるらしい。
要するに、オリンピックとはめったにない金もうけの機会らしい。だから、自分の事業を何とかオリンピックに関連づけよう、というわけだ。
こう考える人々の念頭には、オリンピック競技場で何が行われるかは、最初からない。
(2)東京大会(1964年)では、オリンピックは経済成長の起爆剤になった。東京の地下鉄が整備され、新幹線ができた。こうした社会資本の集中整備は、その後の経済成長を支える基盤施設になった。
しかし、いまの日本で同じことを期待するのは、アナクロニズムだ。なぜなら、いまの日本は、当時とはまったく異なる経済条件下にあるからだ。
わずか数週間の一時的利用のために膨大な投資を行えば、将来、重荷になるばかりだ。
(3)オリンピックでは、もともとのオリンピック精神にはなかった理念が発信されることがある。
(a)国威発揚モデル・・・・最初に意識されたのはベルリン大会(1936年)で、記録映画のタイトル「民族の祭典」が、その本質を示す。世界を支配できる優秀な民族の条件を、オリンピック競技場で示そうとしたのだ。
(b)発展途上国モデル・・・・「わが国も、やっとオリンピックを開催できるだけ成長した。だから、これからは経済取引の相手として認めてくれ」というメッセージを世界に向けて発信するのだ。典型が東京大会(1964年)で、ソウル大会(1988年)、北京大会(2008年)もその延長上にある。
(c)理念/新しいアイデアや考え提示モデル・・・・
①公的資金の供与を受けずに民間資金によって運営・・・・ロサンゼルス大会(1984年)、アトランタ大会(1996年)。
②既存施設の活用・・・・アテネ大会(2004年)、ロンドン大会(2012年)。
(4)東京大会(2020年)では、いかなるメッセージを世界に発信するものか?
招致運動では、確たるイデオロギーなしに進んだようだ。
「これを機会に公共事業をやろう」では、いかにもお粗末だ。第一、それは近年のオリンピックの潮流「リノベーション&リサイクル」に真っ向から反する。
主催国の特権は、メッセージを発信できることだ。この機会を使わないと、もったいない。せめて、問題提起を行うべきだ。
<例1>世界でも稀れな高齢化が進んでいる国でオリンピックを開催する意義をアピールする。高齢者鉄人レースを取り込んだり、パラリンピックを優先する、etc.。
<例2>最低限必要なことは、過酷原子力事故を起こし、いまだにそれを克服できないでいる国としてのイメージだ。極めて深刻な事故だが、それと真剣に向き合っているという現状を世界に向かって伝えるべきだ。
(5)<例3>として、市民生活ないし個人生活との関連をテーマにする。
大多数にとって、いまのオリンピックは見るだけで、積極的に参加できるものではない。
競技場に入場するのは、人間能力の極限を追求するアスリートたちであり、普通の人とは隔絶された存在だ。いま世界最高水準をめざすには、日常生活を放擲しなければならない。国や企業の庇護を受けなければならない。
プロならば、すべてを投入してスポーツに専念するのは当然だ。アマチュアは、同じことを行えない。現代のオリンピックは、根源的矛盾を抱えている。
アマチュア精神とは、すべての市民が参加できるものではない。しかし、大会と日常生活がこれほどかけ離れてしまった現状は問題だ。
映画「炎のランナー」では、宣教師である選手は出場種目の日程が安息日になってしまったため、宗教上の信念を優先して試合を放棄する。選手が個人の時代には、こうしたことができた。しかし、国や企業の援助で費用をかけて養成された選手では、自分の信念を優先できない。
ノーベル物理学賞受賞者ニールス・ボーアは、サッカー選手で、ロンドン大会(1908年)デンマーク・チームの補欠選手だった。こんなことも、いまでは望めない。
(6)日常生活とスポーツの連続性に関する何らかのメッセージを東京大会で示せないか?
超人的な競技は、プロないし事実上のプロに任せる。極限の追求は、世界陸上大会とか世界水泳大会に任せる。
4年に1回のオリンピックは、アマチュア競技の原点に戻る。
そのために、大げさな開会式はやめる。メダルもやめる。表彰式でも、国旗掲揚や国歌演奏を行わない。などなど。
新しい試みは、いくらでもある。
□野口悠紀雄「オリンピック開催は公共事業のためか? ~「超」整理日記No.692~」(「週刊ダイヤモンド」2014年1月18日号)
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「大会準備のための投資が、日本経済にあらたな需要をもたらすと期待される」という意味だ。事実、オリンピックの経済効果に係る分析が、その後いくつも発表された。「アベノミクスの第4の矢になる」という意見も表明された。
大多数の日本人にとって、オリンピックとは、競技場や付属施設が建設されること、道路・鉄道などの関連公共事業が行われること、ホテルが増設され、世界中から観光客が押し寄せること・・・・であるらしい。
要するに、オリンピックとはめったにない金もうけの機会らしい。だから、自分の事業を何とかオリンピックに関連づけよう、というわけだ。
こう考える人々の念頭には、オリンピック競技場で何が行われるかは、最初からない。
(2)東京大会(1964年)では、オリンピックは経済成長の起爆剤になった。東京の地下鉄が整備され、新幹線ができた。こうした社会資本の集中整備は、その後の経済成長を支える基盤施設になった。
しかし、いまの日本で同じことを期待するのは、アナクロニズムだ。なぜなら、いまの日本は、当時とはまったく異なる経済条件下にあるからだ。
わずか数週間の一時的利用のために膨大な投資を行えば、将来、重荷になるばかりだ。
(3)オリンピックでは、もともとのオリンピック精神にはなかった理念が発信されることがある。
(a)国威発揚モデル・・・・最初に意識されたのはベルリン大会(1936年)で、記録映画のタイトル「民族の祭典」が、その本質を示す。世界を支配できる優秀な民族の条件を、オリンピック競技場で示そうとしたのだ。
(b)発展途上国モデル・・・・「わが国も、やっとオリンピックを開催できるだけ成長した。だから、これからは経済取引の相手として認めてくれ」というメッセージを世界に向けて発信するのだ。典型が東京大会(1964年)で、ソウル大会(1988年)、北京大会(2008年)もその延長上にある。
(c)理念/新しいアイデアや考え提示モデル・・・・
①公的資金の供与を受けずに民間資金によって運営・・・・ロサンゼルス大会(1984年)、アトランタ大会(1996年)。
②既存施設の活用・・・・アテネ大会(2004年)、ロンドン大会(2012年)。
(4)東京大会(2020年)では、いかなるメッセージを世界に発信するものか?
招致運動では、確たるイデオロギーなしに進んだようだ。
「これを機会に公共事業をやろう」では、いかにもお粗末だ。第一、それは近年のオリンピックの潮流「リノベーション&リサイクル」に真っ向から反する。
主催国の特権は、メッセージを発信できることだ。この機会を使わないと、もったいない。せめて、問題提起を行うべきだ。
<例1>世界でも稀れな高齢化が進んでいる国でオリンピックを開催する意義をアピールする。高齢者鉄人レースを取り込んだり、パラリンピックを優先する、etc.。
<例2>最低限必要なことは、過酷原子力事故を起こし、いまだにそれを克服できないでいる国としてのイメージだ。極めて深刻な事故だが、それと真剣に向き合っているという現状を世界に向かって伝えるべきだ。
(5)<例3>として、市民生活ないし個人生活との関連をテーマにする。
大多数にとって、いまのオリンピックは見るだけで、積極的に参加できるものではない。
競技場に入場するのは、人間能力の極限を追求するアスリートたちであり、普通の人とは隔絶された存在だ。いま世界最高水準をめざすには、日常生活を放擲しなければならない。国や企業の庇護を受けなければならない。
プロならば、すべてを投入してスポーツに専念するのは当然だ。アマチュアは、同じことを行えない。現代のオリンピックは、根源的矛盾を抱えている。
アマチュア精神とは、すべての市民が参加できるものではない。しかし、大会と日常生活がこれほどかけ離れてしまった現状は問題だ。
映画「炎のランナー」では、宣教師である選手は出場種目の日程が安息日になってしまったため、宗教上の信念を優先して試合を放棄する。選手が個人の時代には、こうしたことができた。しかし、国や企業の援助で費用をかけて養成された選手では、自分の信念を優先できない。
ノーベル物理学賞受賞者ニールス・ボーアは、サッカー選手で、ロンドン大会(1908年)デンマーク・チームの補欠選手だった。こんなことも、いまでは望めない。
(6)日常生活とスポーツの連続性に関する何らかのメッセージを東京大会で示せないか?
超人的な競技は、プロないし事実上のプロに任せる。極限の追求は、世界陸上大会とか世界水泳大会に任せる。
4年に1回のオリンピックは、アマチュア競技の原点に戻る。
そのために、大げさな開会式はやめる。メダルもやめる。表彰式でも、国旗掲揚や国歌演奏を行わない。などなど。
新しい試みは、いくらでもある。
□野口悠紀雄「オリンピック開催は公共事業のためか? ~「超」整理日記No.692~」(「週刊ダイヤモンド」2014年1月18日号)
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