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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『高山右近』

2010年02月06日 | ●加賀乙彦
 高山右近は、切支丹大名として知られる。茶人、利休七哲の一人でもあった。
 摂津高山に生まれ、1564年に受洗(洗礼名ジュスト)。1585年、豊臣秀吉の治下に明石7万石を得たが、1587年に秀吉の伴天連追放令に抵触して改易された。加賀の前田利家に1万5千石で召し抱えられ、26年間仕えた。
 徳川家康が発したキリスト教禁令が徹底されるに及んで捕縛され、1614年に国外追放となり、マニラへ到着後わずか40日で帰天した。

 本書は、右近の晩年の1年間を描く歴史小説である。
 囚人の日々に焦点をあてながら、その時々に触発される右近の回想を織りまぜることで、その人となりを浮き上がらせる。
 全17章のうち計5章、宣教師クレメンテによる書簡は、いわばナレーターの役割をはたす。すなわち、右近の動向を同時代人の目で手短に語らせつつ、当時の切支丹をとりまく情勢を伝え、併せて世界史的視野で戦国時代末期から鎖国開始期の日本をスケッチする。

 実在の人物を実名で主人公とする小説は、加賀乙彦には珍しい。すくなくとも長編/中編小説では初めてである。
 加賀は、事実と真実(虚構)の区別に意識的な作家である。

 加賀はいう、「作家は指で書く」と。プロットは前もってこしらえることができるが、ストーリーは書いていくうちに指先から紡ぎだされてくる。想像力はどんどんふくらんで、登場人物の深くて暗いこころの奥の微妙なひだまで分け入り、厚みのある人物像が造形されていく。
 ドストエフスキー的混沌、破綻寸前でとどまる奔放な文体で精神の広大さを描く点が、加賀の魅力である。
 しかるに、本書は、史実に即しているせいか、内面描写は抑制され、文体は端正、乱れがない。動乱の世を背景としていながら、全編、堅固な静謐がただよう。

 だが、と思う。加賀は、異常な状況や(いまから見れば)異常な時代のなかの人間を描きつづけてきた。
 初期の『荒地を旅する者たち』や『フランドルの冬』では状況への医学的知的な対峙、『帰らざる夏』では軍国日本の時代精神に翻弄される少年たちを主人公にすえた思考実験、『錨のない船』では開戦へむかう時代風潮への抵抗、『宣告』では組織からの逸脱、『湿原』では冤罪、そして大作『永遠の都』及びその続編の戦後編『雲の都』では変転する歴史の中をしぶとく生き抜く一族を描いてきた。
 こうした流れのなかで本書をみれば、時代への抵抗をはっきりと打ち出している。科学者としては理想的な姿を描けなかった加賀は、カソリックの立場から、いわば理想型として『高山右近』を書いた。
 政治的思惑から切支丹を禁じる幕府の政策を、主人公は断固として拒否し、信をつらぬく。拒否というより、理不尽な権力に対する不服従である。
 要するに、かつてテーマとした「聖なる狂気」が、信仰に置き換えられたのである。

 加賀乙彦は、精神科医としてパリに留学する前に刑務所の医務官をつとめた。本名の小木貞孝名義の『死刑囚と無期囚の心理』 (金剛出版、1974)がある。
 殉教となるか追放となるか、裁断を待ち受ける囚人の日々が活写されているのも、むべなるかな。

□加賀乙彦『高山右近』(講談社 、1999、後に講談社文庫、2003)
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書評:『スコッチと銭湯』

2010年02月06日 | エッセイ
 本書はランティエ叢書の一冊。
 「ランティエ」とは、19世紀末パリの都市文化が産み落とした高等遊民の総称である。
 まるで田村隆一のためにあるような言葉だ。詩人、酒談義の好きなエッセイスト、ミステリーの翻訳家・・・・。いずれも世の役にたたないという点で、徹底している。

 しかし、よくしたもので、無用の用という言葉もある。
 無用の最たるものは、詩。
 本書はそれまで田村隆一が公開した7冊から抜粋したエッセイで構成されるが、詩も数編収録されている。
 詩誌「荒地」に拠って名をあげた人にふさわしく、いずれも硬質にして巧緻、豪胆にして繊細、舌頭にころがせば、読者の精神がストレッチングされる。

 エッセイは、一見無手勝流の奔放な文体だが、けれん味がない。
 話題は、徹頭徹尾、酒である。大阪のアメリカ文化センターで金関寿夫を司会に作家ジョン・ガードナーと公開ディスカッションをしたが、酔っぱらって何を話したのか忘れた、云々。

 話したことを忘れても、「田村先生はとっても素敵な方なの」と女性の編集者から慕われる人なのだ。
 だからと言って、こちらも豪快に飲もう・・・・などと早合点してはならない。
 談論活発、しかも詩人の感性を伴う批評眼を備えなければならない。
 たとえば、スコットランドの水車小屋を訪れていわく、「動いていない機械というものは、とにかく孤独である」
 あるいは、歴史家の奈良本辰也と対談の後、酔余のうちに口走る。「京の庭は、閉じられていなければならぬ。(中略)観覧料を払った瞬間、京の庭は消滅する」

 酔眼は、文明批評を生む。
 英国のパブリック・ハウスで一杯やりながら、ほぼ次のように観察するのだ。
 「パブは、飲み、かつ、お喋りする場だ。話題は、地域社会に関わり、国政や英国経済には及ばない。パブは常連で占められる。常連は先祖から続き、子孫に継がれる。このタテ糸に常連相互の間のヨコ糸が交差して、地域の共同体を支え、あるいは共同体をより緊密なものにする」
 パブのこうした機能は、日本では居酒屋よりも銭湯に近い。
 著者は言う、町は家族三代が住まないとほんとうの町にならない、と。
 「おじいさん、おばあさん、それに孫たちというタテ糸と、町内のヨコ糸がまじわるところに銭湯がある」

 「仁義廃(すた)れば銭湯廃る/銭湯廃れば人情廃る」・・・・
 これは、銭湯に備えつけのエアコンのカバーに印刷された著者の詩句だ。
 ここにして、著者がひそかに夢見るものが明らかになる。
 こまやかな人情に満ちたコミュニティがそれだ。「荒地」の仲間、吉本隆明と銭湯をともにし、それだけで終わらなくて共に鮟鱇鍋をつつくのも、カミさんが入院中の正月に鎌倉の知人を訪ねてまわって飲むのも、共同体という夢が底にあるのだ。

□田村隆一『スコッチと銭湯』(角川春樹事務所、1998)
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【本】省略の妙、または寒い国の熱い話 ~『ペールキン物語』~

2010年02月05日 | 小説・戯曲
 現代小説の饒舌に飽いた人は、省略のきいた古典で口なおしするとよい。『ベールキン物語』なぞ、どうだろう。稀代の詩人にして反逆児、専制政治の犠牲者、プーシキンの代表作の一である。
 5編の短編から成る。たとえば「駅長」のあらすじは、こうだ。

 「私」は、「***県」の駅馬路(うまやじ)の「***駅」で、駅長とその14、5歳とおぼしき美貌の娘ドゥーニャに出会う。数年後、同じ駅に立ち寄ったところ、駅長は見る影もなく老いこんでいた。聞けば、「私」が出立してまもなくドゥーニャは失踪した、という。ドゥーニャはさる貴族の囲い者となったらしい。駅長は、風の便りをたよって、ペテルブルグに住まう娘をたずねた。愛されているらしいことはわかったが、くだんの貴族からは邪険に追い返された。告訴も考えたが、駅長は諦めた。やがて捨てられ、零落するだろうに。
 「いっそあれが死んでくれればいいのにと思いましてね。・・・・」
 その後、またその地域に赴いた「私」は、後日譚が気になって、わざわざ道草して寄った。駅長はすでに鬼籍に入っていた。無駄な出費をしたものだ、と悔いつつも、お節介ついでに駅長の墓を詣でたところ、案内した少年が意外な話を伝えてくれた。
 きれいな奥さんが六頭立ての箱馬車で、三人の子どもと共にやってきて、駅長が亡くなったと聞いて泣き出した、と。道は知っているから、と案内を断って、<俺らが遠くから見ているとね、あの人はここへぶっ倒れたなり、いつまでも起きあがらなかったっけ。そいから奥さんは村へ行って、坊さんを呼んでね、お金をやったのさ。そいから行ってしまったっけが、俺らにゃ五コペイカ銀貨をくれたよ。・・・・ほんとうにいい奥さんだったなあ>

 「私」の思いはまったく述べられていない。ただ、一行だけつけ加える。「私」もまた襤褸を着た少年に五コペイカ銀貨を与え、<この村に寄ったことも、それに使った七リーブルも、もはや惜しいと思わなかった>。
 5編の短編のいずれも語り手は「私」だが、たんなる語り部にすぎない。真の主人公は別にいて、短編ごとに違った主人公が登場する。誰が主人公なのか、さいしょは定かではない物語もある。前掲の「駅長」がそうだ。タイトルとなった以上、帝政ロシアの行政機構における末端の出先機関の長が主人公でありそうなものだが、じじつ駅長の行動と述懐に紙数が割かれるのだが、真の主人公は駅長の娘である。
 ただし、彼女は他人の言葉によって語られるだけの、いわば薄膜を通してのみ透かし見ることができる人物にすぎない。
 ところが、目鼻立ちははおろか髪の長短も背丈もまったく記されていないにもかかわらず、その人となりの印象はじつに鮮やかだ。
 容姿その他の描写を省略することによって、かえって人間像が陰影ふかく浮き彫りにされることもあるのだ。

□アレクサンドル・プーシキン(神西清訳)『スペードの女王・ペールキン物語』所収)(岩波文庫、1962)の「ペールキン物語」
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書評:『めぐりあいし人びと』

2010年02月04日 | ●堀田善衛
 堀田善衛は、1918年生、1998年没。大正から平成までの三代を生きた。
 二人の聞き手を前に、80年ちかくの生涯を回想して語ったのが本書である。
 話題は多岐にわたる。しいて整理すると、次の五点をあげることができる。

 第一に、時代とともに生きた自らの回想がある。
 富山県の伏木港(現高岡市)の廻船問屋だった生家と父親、慶応予科入試の当日に遭遇した2・26事件、戦犯ないしスパイ容疑を問われた李香蘭(山口淑子)の救出、1956年からロータス賞受賞の1979年まで関与したアジア・アフリカ作家会議、ヴェトナム戦争の米兵の脱走支援。

 第二に、豊富な交友録がある。
 大学の保証人である小泉信三にはじまり、ネルー父娘、茅盾、フルシチョフ、ヒクメット、エフトシェンコ、宮沢喜一、ミラン・クンデラ、ソルジェニーツィン、等々。名だたる詩人、作家、哲学者、政治家とがっぷり四つに組んでたじろがない。名声に溺れぬ雑談の名手、サルトルの知られざる側面を紹介して懐かしむくだりもある。

 第三に、日本の作家をめぐるエピソードがある。
 戦中大陸で交際した武田泰淳やら草野心平やら、枚挙にいとまがない。一例だけ引こう。戦後まもない頃、音楽好きの仲間の一人に太宰治がいた。線の細い青白きインテリと想像されがちな人だが、刺身を一度に4枚食べる豪快な一面があった、という。

 第四に、重層的な歴史感覚による文明批評がある。
 百年前はもちろん、千年前の過去と現在とを自在に往復する教養と柔軟な発想が見られる。たとえば、EC統合による国境廃止を中世に戻った、という視点からとらえる。あるいは、中国の文化大革命を歴代王朝の交替と重ねあわせる。

 第五に、日本の歴史や古典の独自な解釈がある。
 たとえば、平城京の人口の半数が外国人だった奈良朝は今より国際的だったが、鎌倉幕府には外交感覚が欠如していた、と指摘する。外交感覚の欠如は、現代に至るまで続いている、とも。あるいは、鴨長明を怒れる若者と定義し、『方丈記』は一種の住居論であり、方丈とはキャンピング・カーのことだ、と奇抜な、しかし唸らせるたとえを持ちだす。

 第4回大佛次郎賞を受賞した『ゴヤ』をはじめとする多数の著書のさわりを満載している本書は、格好の堀田善衞入門書だ。

□堀田善衞『めぐりあいし人びと』(集英社文庫、1999)
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書評:『まっぷたつの子爵』

2010年02月03日 | 小説・戯曲
 1716年、オーストリア対トルコの戦争で、メダルド・テッラルバ子爵は砲弾でまっぷたつに分断された。そして、それぞれ半身のまま二人の人間として生き続ける。
 不思議なことだが、本書にはほかにもたくさんの不思議な、または奇妙な人物が陸続と登場する。
 メダルド子爵の父親アイオルフォ老子爵がそうだ。鳥だけを生きがいとし、大きな鳥籠の中にベッドを持ち込んで昼夜わかたず暮らすのだ。
 あるいは、聖器と聖典を失ったユグノーたちの。
 あるいは、また、領主の悪意から追放された者を受け入れるハンセン氏病患者の集落。
 そして、心を傷めつつも能率的な絞首台を製造するピエトロキュード親方に、患者をちっとも診ようとしないで人魂を追いかける医師トロレニー博士。

 メダルドの右半身は悪行のかぎりを尽くし(悪半)、左半身は聖者のごとく善行に勤しむ(善半)。
 善半を含めて、双方とも住民から蛇蝎のごとく嫌われる。善も極端になると人間の域をはみだすのである。
 両者が同じ一人の娘パメーラに惚れこんだ。当然、決闘だ。
 ところが、あーら不思議、彼らが剣を突く位置は、相手の欠けている半身の箇所、つまり自分の身体があるべき箇所ばかりなのだ。
 当然、決闘はケリがつかない。ケリは、二つの半身が合体することでついた。
 かくて、善半および悪半はひとりの人間となった。二は一に帰し、完全な体を有するにいたっただけではなかった。「しかも彼にはひとつになる以前の経験があったから、いまでは充分に思慮ぶかくなっていた」

  *

 1952年に原著が刊行された本書は、『木のぼり男爵』(1957年原著刊)、『不在の騎士』(1960年原著刊)とともに「われわれの祖先」三部作をなし、その嚆矢である。
 善悪に引き裂かれた人間をメダルド子爵に仮託する。俺は一個の他人である、とアルチュール・ランボーはいったが、善人のうち悪人が棲み、悪人のうちに善人が棲む。善悪の両面をもつのが人間だ。善一点ばりの人間は、悪のみの人物と等しく薄っぺらな人格でしかない。清濁併せ呑み、内面の戦いがあるからこそ、思慮深くなる。
 メダルドは一個人ではなく、原著刊行当時左右の政党の間で揺れ動いていたイタリアを諷するものかもしれない。右であれ左であれ、わが祖国・・・・。カルヴィーノは、「かろうじてパルチザンに参加するのに間にあった」世代の一人であった。

□イタロ・カルヴィーノ(河島英昭訳)『まっぷたつの子爵』(『文学のおくりもの2』、晶文社、1971)
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書評:『なぜ「表現の自由」か』

2010年02月03日 | 批評・思想
 法学家の文章の大半は読んでさほど楽しくないが、何事も例外はある。
 たとえば、奥平康弘。本書の著者である。
 著者の文章は、本書のような学術書にあっても、講義、講演と同じように、ポキポキと折れるような、訥々と呼んでもよい、雄弁とは言いがたい、屈折した、目につきにくいものを漏れなくすくい上げようとするかのような、微妙な論点は繊細に語る文体である。だが、論旨は常に明快だ。
 著者は『事件』『サッコとヴァンゼッティ』ほかを収める『大岡昇平集 第6巻』(岩波書店、1983)の解説で、『事件』を刑事訴訟法の教材として格好だ、という斯界の評価を伝えている。『サッコとヴァンゼッティ』について、大岡昇平が主に依拠した文献以外の資料にも言及しているのは、プロの法律家として驚くことではないが、シェークスピアほかの文学も読みこなしている気配が解説文の節々にうかがわれて、こちらは驚くべきだ。その文章が読みやすいのもむべなるかな。

 本書は、著者が専門とする憲法学の見地から、表現の自由に係る日米の判例のいくつかに対して詳細な評釈をくわえる。
 それは、単なる評釈にとどまらない。全編、わが国に適正な「表現の自由」を実現せんとする情熱が流れている。
 困難は、当然、あった。
 「第4章 選挙運動の自由と憲法 -日本のばあい-」に、こんな話がある。
 公職選挙法第138条第1項に戸別訪問禁止の規定があり、1950年、最高裁がこれは憲法違反ではない、と裁決した。ところが、1967年、1968年に2つの下級裁判所がこの「社会通念」にチャレンジする判決をくだし、これに刺激されて著者は「戸別訪問禁止制度は違憲だ」とするエッセイを発表した。当時は珍しい主張だったので、この種の裁判の証人としてしばしば呼ばれた。主尋問の後、検察側の反対尋問で衝いてきたのは「憲法学会の通説はどうか、宮沢俊義教授のような憲法学の権威はこの点をどう解釈しているか」というもの。奥平説は特異な謬見にすぎない、という印象を裁判官へ与えるための問いで、彼は孤立無援の焦燥を感じた。
 当時の憲法学会では、戸別訪問禁止が憲法違反に当たらないことは当然の理(“take it for granted”)だった。
 しかし、その後、少なくとも学界に関するかぎり、「戸別訪問禁止は違憲だ」とする説が増え、文献の上では合憲論が減った。かつて合憲説を疑わなかった学者も、自説を修正した(たとえば小林直樹、芦部信喜)。証人出頭にあたっても、検察側はもはや「学界の通説いかん」のごとき反対尋問は行わなくなった。
 少数意見は、通説へと転換したのである。

 「表現の自由」は天から降ってきたわけではないことを私たちに自覚させる一例だ。
 そして、わが日本人が「表現の自由」にいかに鈍感であるかも。
 著者は、後年、本書では書きつくせなかった米国の「表現の自由」を詳述するべく新たな本を刊行する。「アメリカにおける権利獲得の軌跡」の副題をもつ『「表現の自由」を求めて』(岩波書店、1999)がそれである。もちろん、日本における「表現の自由」を見据えた上での作業だ。

□奥平康弘『なぜ「表現の自由」か』(東京大学出版会、1988)
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書評:『おかしな男 渥美清』

2010年02月03日 | ノンフィクション
 「おかしな男」には、喜劇人という意味と畸人という意味とが含まれている。可笑しな男、変な男。役者・渥美清は可笑しな男として知られるが、本書ではその比重はごく軽い。
 本書の主眼は演じられた寅さんではなくて、人間・渥美清に置かれているからだ。渥美清こと田所康雄は畸人であった。

 経歴からして尋常ではない。的屋の経験があり、門前に立てば、その家の者は黙って金を包んだ。それほどの迫力があった。
 他方、中学生の時にグレて、卒業していない。だから、アルファベットを読めない。台本にabcがでてくると、田所康雄は底力のある小声でたずねた。そして、abcにふりがなをふった。
 歴然たる学力不足を自覚していた田所は、屈折した心の回路をへてインテリ好みに傾く。後年、羽仁進に登用されて田所は満足する。
 著者、小林信彦とのなれそめも、このあたりに理由がある。
 田所と著者との出会いは、1961年夏のこと。以後、亡くなるまで付きあいが続いた。まだ20代の会社員だった著者は、平日、田所のアパートで夜明けまで語り明かしたこともある。
 田所は、片肺を切除していたから、体力の維持にひと一倍気をつかった。こうした事情もあって、公人の顔と私人の立場とを厳しく区別した。この性向は晩年まで続き、没後の密葬を選択させる。私生活に招き入れられた点で、著者は例外的な存在となった。

 当然、豊富なエピソードにこと欠かないが、本書はエピソードの単なる羅列ではない。
 たとえば、田所には芸に天賦の才があったが、まめに芝居や映画をみて腕をみがいた。芝居や映画の批評は抜群に面白く、物まねは神技の域に達していた。酒が飲めないのに、えんえんと語り続けてひとを飽かせない。 

 ここで著者は、同じく飲めないのに話術がたくみな植木等と比較するのだが、このあたりに批評眼がひかる。
 小林信彦の作品のすべてについて通じるが、やわらかな、ほとんど話し言葉に近い、くだけた文章だ。書き手の自我はほとんど無と化し、透明になり、言葉だけが定着され・・・・それでいて、言うべきことはきちんと言う。
 本書は、伝記ではない。回想録である。たしかな記憶と克明な覚書をもとに、田所康雄という個性的な役者の実像が浮き彫りにされた。さらに、田所康雄/渥美清をとりまく映画界、テレビや芝居に関わる数奇な人間模様が描かれている。

□小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮社、2000、後に新潮文庫、2003)
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書評:『がんをつくる社会』

2010年02月01日 | 医療・保健・福祉・介護
 原題の「がん戦争」のほうが本書の意図を正確に伝えている。人間対がんの戦争という意味もあるが、より具体的に言えば「がんを予防あるいは抑制しようとする者」対「がんの予防措置を妨げる者」との戦いである。
 著者は科学史家であり、終始科学的なデータと科学者の意見に即して議論を進めている。科学的考察によって浮き彫りにされるのは、社会的政治的要因である。
 今や「がんの原因はほぼわかっている」と著者はいう。発がん物質の古典的な例をあげれば、煙突のすす、精錬作業からの煙、パラフィン、ウラン鉱山内部の空気、アニリン染料、X線、コールタール、アスベストなど。これらは、大気、飲料水、食料品を介して人間の体に入り込む。
 世界保健機構によれば、がん全体の二分の一は、もっとも工業化の進んだ国(世界人口の五分の一)で発生している。
 「がんはだいたい予防できる」とも著者はいう。喫煙者が禁煙すれば、肺がん発生率を下げることができる。
 だが、生活習慣や食生活の改善と異なって、環境破壊の改善は容易ではない。産業界は、がんの危険を隠蔽し、曖昧にし、逆宣伝をおこない、予防措置を先送りにしてきた。がん研究にも投資したが、それは治療に対してであり、予防に対してではなかった。
 政治もこれに加担した。その端的な例がレーガン政権である。国防費をふくらませる一方で、大企業に露骨に梃子いれした。労働安全衛生や環境に係る規制を大幅にゆるめ、これらの業務に携わる政府職員の言動を検閲したのである。本書は、一章をさいて、レーガン政権による「がんの政治学」の歪みを剔抉している。
 「がんの政治学」をはね返して本書が提言する予防対策は、21世紀の日本の対がん戦略に資するだろう。

□ロバート・N・プロクタ(平澤正夫訳)『がんをつくる社会』(共同通信社、2000)
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書評:『この一秒 極限を超えた十人の物語』

2010年02月01日 | ノンフィクション
 ノンフィクション・ノベルは、事実を追求して再構成するノンフィクションとしては徹底しない。想像力により現実から独立した虚構の世界を構築する小説としては、生の事実に寄りかかりすぎる。要するに、腰の定まらぬジャンルである。
 本書も、ヌエ的な中途半端さをまぬがれていない。
 だが、話半分に読み流せば、それなりにおもしろい。著者には人間が好き、みたいなところがあって、この思いがいたるところに滲みでているからだ。
 たとえば、「九十三点目の奇跡」。青森県の高校の弱小野球部を描く。夏の県予選大会で深浦高校は強豪とぶつかり、5回を終わった時点で、スコアはなんと93対0。なんとか10人の部員をそろえて、遊び半分の生徒をなだめつすかしつ大会出場へもっていった監督も、試合放棄を覚悟する。だが、選択を求められた選手たちは続行を決めた。スタンドから拍手と声援が湧きおこった。と同時に、それまで疲労と負けいくさで意気消沈していた選手たちに、明るく屈託のない笑顔が浮かんだ。試合は122対0で終了した。大会があけて最初の練習日に、1年生6人はふたたびグランドにやってきた。引き締まった表情で。野球のおもしろみ、スポーツの奥深さを知ったのである。
 文章はあらい。山際淳司の簡潔な切れ味はない。けれども、世の片隅で目立たずに生きる者に対する共感、ぬくもりのある眼差しがある。
 落ちこぼれにも下積みの人にも、人生の分岐点となる一瞬が訪れる。この一瞬が十の短編で描かれる。

□畠山直毅『この一秒 極限を超えた十人の物語』(日本放送出版協会、2000)
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書評:『医師はなぜ安楽死に手を貸すか』

2010年02月01日 | 医療・保健・福祉・介護
 著者は、エール大学医学部外科学教授、ガン治療専門医である。

 現代医学のおかげで人々は長生きするようになった。
 その一方では、人生の終末期に耐えがたい苦痛を味わうようになった。
 不治の病(ことにガン)のため、じわじわと苦しめられ、時として激痛さえあじわう。寝起きはままならず、排尿さえコントロールできない。
 長期間の療養のため、社会的地位はうしなわれ、人間関係は希薄になる。
 家族の精神的負担は大きく、(ことに合衆国では)医療費の負担額は膨大になる。

 のこる命が数日間あるいは数週間の場合、そのあいだに得られる喜びにくらべて、こうむる苦しみと苦痛のほうが格段に大きいと予想されることがある。こうした場合、QOL(生活の質)と尊厳を保って死を迎えたい、と願う患者がいる。
 この願いにこたえるのが、本書でいう安楽死である。

 安楽死は本人あるいは家族が行うよりも医師が行うほうが安全だ・・・・そうみる立場から、著者は、「医師の手を借りた安楽死」ができる政策を提言する。

 提言の論拠として、ガンにより亡くなった著者自身の父親をはじめとする患者たち30人の声を引き、合理的自殺に関する考察を行う。
 また、医師や国民の意見調査を援用し、医師が現実に安楽死に関わっている実態をしめす。
 さらに、1970年代に安楽死を合法化したオランダの実験について考察している。

 患者がみずから死期を定める自己決定権の保障、しかも医師による保障には、反対意見も多い。
 著者は、慎重にも、反対意見をきちんと紹介する。なかんずく「第5章 医師の懸念」「第6章 国民の懸念-悪用と危険な坂道」において、反対意見を集中的にとりあげ、併せてこれに対する著者の見方を率直につづる。

 医師が安楽死に手を貸したがらない最大の理由は、違法であることだ。
 だが、法は社会の意識とともに変化する。
 オレゴン州尊厳死法(1994年)は住民投票によって成立した。
 連邦裁判所における判例も、少しずつ容認の方向へ変わってきた。つまるところ、「患者の訴えが医師や政府を動かす」のだ。

□チャールズ・F・マッカーン(杉谷浩子訳) 『医師はなぜ安楽死に手を貸すか』(中央書院、2000)
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