ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2021-93ある 知人がテレビで語ったこと

2021年10月11日 | 日記
定年直後の数年間
全国の平和学習分科会で一緒になり語り合った仲間がいた。
東京都代表で小学校教諭のその人は牛島中将の孫と語っていた。

多くの犠牲者を出した沖縄戦の司令官であった。
その人が先週の深夜番組のドキュメンタリーに出ていたのだった。
彼はすごく平和意識の高い人と記憶していた。
彼は40歳から沖縄に毎年通い、自身で祖父の事を調べはじめていたのだった。

祖父は温厚な人だったようだ。
1945年当時、首里城の地下壕は距離にして数キロの要塞と呼ばれていたようだ。
4月1日、アメリカ軍上陸。相手は40万、対してこちらは10万の兵士。
東京の本部からは本土決戦の時間稼ぎをしろとの指示。
5月中旬から下旬までの戦いで日本軍は司令部のある首里まで追い詰められ、
そこをすて南部へ。
当時の沖縄県知事は南部に避難の人の犠牲者が出ると反対したが受け入れられず
首里城から移動中、500m下った道路は生き残った看護学生によれば
軍人・民間人が混在し、その中を銃弾の雨が降り続き光景が一変した道路だったという。

なんとか南部の摩文仁に到着。
その後、6月23日、ついに牛島満司令官が海岸線の洞窟内で自決。
その最期の命令は投降ではなく「最後の一兵まで戦えだった。」とか。

そのため多くの犠牲者を増幅させたのだった。敗戦した8月15日ではなく
沖縄の日本軍が調印したのが9月7日。と、戦争を長引かせた結果、
沖縄戦での死傷者20万人、うち日本兵6万6千人、アメリカ1万2500人。
一般住民9万2000人。沖縄県民の犠牲者が半数。

戦争は一般市民を巻き込み、多大な犠牲者が生むのです。

孫である彼は、犠牲者を少なくさせる機会は2回あったと。
首里での撤退の時。そして南部で自決する時。
その時、降伏していたら・・と。
上からの命令として本土決戦のため、時間稼ぎをし長引かせることで
沖縄県民の犠牲者が多大になったわけです。

温厚な祖父。しかし軍人としては命令に逆らえない。ひととして
判断が出来ない状況ではなかったのではないでしょうか。
定年退職した今、今後は
祖父のことを語り、全国行脚をしたいと彼は語っていました。










コメント
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