ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2025-31 新劇の歩み100年

2025年02月08日 | 日記
今週末まで今季最大の大寒波。今朝はマイナス10度。
この間、スイムをガッツリ。こんな寒い日にと傍目に思うがもしれないのですが。
プールの水温は何時もより高めに設定され、以外と快適に泳げるのです。

先日、県民会館にて演劇鑑賞会向けに東演劇団の方の講演。
演劇の100年の歩み
1906年 文芸協会 坪内逍遥、島村抱月。発足 滝沢修、杉村春子生まれ
1909年 演劇研究所~13年解散
1913年 芸術座 島村抱月 松井須磨子 発足 下村正夫 園井恵子(岩手 八幡平) 生まれ
1914年 宇野重吉、木下順二 生まれ 1923年 関東大震災
1924年 6月 築地小劇場開場  
1925年 25才男子普通選挙 治安維持法
1931年 満州事変 日中15年戦争 ~
1933年 小林多喜二 拷問死
1937年 文学座 発足
1940年 8月 劇団強制解散 100名以上検挙。大政翼賛会
1941年 日本移動演劇連盟発足
1942年 苦楽座す結成 丸山定夫 園井恵子ら 文化座結成
1944年 俳優座結成
1945年 苦楽座 移動演劇連盟に参加 6月広島に「桜隊」と改称
1945年 8,6  爆心地から750mの宿舎で被爆 9人のうち5人は即死。 
    4人は放射能に苦しみ全員亡くなる。園井恵子 8月21日亡くなる 32歳

 歴史の流れにそって当時の出来事を解説して下さった。注目したのは地元の園井恵子だった。
宝塚に入団した後女優に。時代に翻弄され若くして原爆で犠牲になったが、生きていればどんな人生があったのだろう。
杉村春子、宇野重吉などと匹敵するくらいの存在感があった才能溢れた女優だったに違いないと推測される。
晩年、杉村春子は文化勲章が贈られることへ丁寧にお断りし、辞退したと。
戦前、多くの仲間が検挙され、苦しみ辛い日々を過ごしたことが脳裏を離れないことの表れだったといえる。


 




 
 






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2025-30 奥の深い舟越保武作品・・・県立美術館にて

2025年02月06日 | 日記
この美術館の目玉である舟越保武の作品について、具体的に展示をみながらガイドして頂いた。
女性を柔らかい表情で繊細に表現している幾多の像の作品。
完璧主義を求めていたと。それが1つ、萩原朔太郎の遺族の依頼で作成したが何度も駄目出し。
まだ途中でこれでいいのでは、とこの作品を見せたら遺族は満足したと。
やり過ぎて削りすぎることに気づいたとの1つの作品。
代表作、長崎の26殉教者記念像。
秀吉の禁教令により26人の外国人神父と日本人教徒 (6人の宣教師と信徒20人)
が京都から長崎まで1か月歩き長崎の西坂で処刑される。1,597年。
高山右近は石田三成により、除命される。
その一部の4人のレプリカが展示。
歩いて服もボロボロになっていたろうがきちんとした正装。
足がいすれもつま先立ち。いわゆる昇天している姿を表現している。
手や足が1本1本違う。1体ずつ時間をかけて丁寧に仕上げたといわれる。
代表作 原の城
島原の乱で3万7000人死亡。その中で地底から湧き上がる絶望的は鬨の声
保武の作品には実像と虚像の世界を兵士の姿に表している。
一見、埴輪のようにみえる眼がくりぬかれ亡霊の兵士を表現していると。
代表作 ダミアン神父 1975年作品。八年ぐらいかかったと。
ハンセン病患者を前かにして看病して1年後罹患。
ようやくライ患者と同じで目線で語れるようになった、と話していた神父。
その気高さをどう表現できるのか。思い悩みながら表す、血節、血種を顔や手に表す。
生き様が見える「ゴルゴダ」一九九三年、八一歳
保武さんは七六歳で病気で右手が使えなくなる。
その後左手で創作活動に打ち込む。石は硬い大理石からブロンズ像へ
初期の繊細な女性像から晩年の荒々しいそして胸を打つ作品だ。
子の桂氏がこの最後の作品を見て
「これを造るために今まで彫刻をやってきた。」と語ったといわれる。

生き様がダミアン神父と重なって見えた。

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2025-29 ボランティア交流会

2025年02月06日 | 日記
今季最大の大寒波。真冬日が今週末まで続くとは。
出荷のために何時ものルートで走っていたが吹雪で前が見えず。
回りは田んぼ。両はじの目印の赤いポールが分からない。目をこらし数分間運転。
今年初めてのホワイトロック状態。
不要不急の外出?を控え、今日は出荷は休みにした。
その中でも頑張っているエッセンシャルワーカーの方々、くれぐれも気をつけて・・・。

昨日、午後からボランティアガイドの交流会が県立美術館で行われた。参加者20名。
美術館は創立26年。翌年からボランティア友の会が発足。
40名がガイド、読み聞かせ、会報、総務等に分かれて活動。
ガイドの方々は9名とのこと。以前は東京の美術館に出かけて研修を受講したと。
常設展示が萬鉄五郎、松本俊介、舟越保武の3氏の作品解説。
学芸員からの研修を受け、自分なりに感動したこと等、思いを伝えたいと
16年になられたベテランボランティアの方が
参観者には技法など関心がある方もおられ、そういう方々に学ぶ事も楽しみだと。
30分のガイドで心掛けることとして、分からないことは無理に言わない。調べますと。
一緒に見て楽しみませんか、というスタンスで押し付けない事など話しておられた。

共通しているものが多い交流会だった。





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2025-28 小さな旅 城廻り

2025年02月04日 | 日記
節分を過ぎて大寒波。とにかく寒い日々。風邪とスリップに気をつけなくては。

1月下旬、大人の休日パスを使って城廻りに出かけた。
今回の旅は小田原城、水戸城、鶴ヶ城だ。
駅から近いのが天守のある3そうの小田原城、徒歩10分。
難攻不落といわれ秀吉の小田原攻めで100日もったお城。
ここを舞台にした数々のドラマがある。
戦国時代にできたといわれ、多くが野面積みの石垣。
木製の橋は攻められた時は落として城を守る構造。
ボランティアのガイドから説明を伺った。
なんでも「ずいずいずっころばし」の歌と関連あるとのこと。
東海道を通ってお茶を運んでいたらしい。
大きな茶壺に上茶を入れて海風しめらせないように密封し工夫して運んだと。
帰りは中山道。
何処でも共通しているのは多くの城は明治に入って廃城1870年となる。
復元は1960年の昭和35年。それから多くの門を復元し観光スポットを形成。
街は1日600円の周遊バス。
小田原港は人口港のようだった。そこで刺身と天ぷらで昼食。
都内から出かけ10時から帰りの4時までたっぷり6時間、小田原の街を満喫した。



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2025-27 八潮市の道路陥没事故

2025年02月03日 | 日記
旅行を終えた日、陥没事故のニュースがTVの映像にリアルに映し出されていた。

そこは若い初任の頃に勤務していた場所の近くなのだった。
当時は人口5万人強。東は三郷市、南は足立区、西と北は草加市に接する。
都心から15キロ位。数年前に秋葉原までつくばエクスプレスが通り
最短で17分で都心に到着。今では9万強までと倍増している。
長年の夢だった市民待望の駅ができ電車が開通するあたりから土地は高騰。
そこから街は発展していく。

事故のあった場所はその市の中心部。市役所に最も近い商店街。
その回りは水田や畑で構成されていた。
足立区に近い場所は家族主体の零細工場が多く立ち並ぶ。
埼葛地域で12市町村の下水道が集結する場所で2キロ先には中川浄水場がある。

元々水田地帯であり、地盤は軟弱。しかしこのような地域はどこにでもある。
道路の10m下の大きな下水管が腐食して土砂が崩れ道路に穴があき陥没
今回の事故はどこでも起きえる事故でもある。
地下の中であるだけに危険がせまっていることがみえにくい。
救助はすぐされるだろうと思っていただけに6日過ぎても一向にはかどらない事故現場。
巻き込まれている方の安否が心配だ。
市民の不安も日増しに大きくなっていくだろう。
1日も早い救助を願わずにはいられない。






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