ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2022-16 続先人こぼれ話

2022年02月20日 | 日記
北京冬季オリンピック、今日閉幕。
カーリング女子、活躍しましたね。
丁度、その時間、先人こぼれ話の講座があった。

米内光政をはじめ数人の先人の新たな人柄をしることが出来た。
米内光政の父受政も大柄で光政の180センチより若干大きかったそうだ。
そんな父は盛岡の市長選に立候補、初代市長に選出。
しかし、当時の知事にあたる県令の石井が認めず目時が市長に。
その後、父は上京し、発明家をめざす。がおもうようにいかず借金を抱えていく。
それを生涯、息子の光政が払い支え続けていったそうだ。
光政は海軍兵学校から立身出世して総理大臣になるのだが
貧乏少尉、やり繰り中尉と当時揶揄されていたと。
母は生活が苦しく、父に援助しなくてもといったそうだが
父の生きがいである発明工夫を奪ったら生きがいをなくしてしまうといって
父が亡くなるまで支援したそうだ。
反抗期というものが全く見つからない人だったらしい。

盛岡中学時代、下級武士の息子の光政、授業料を滞納していたことを知って
担任の富田小一郎は月2円支援していたと。
のちに出世した米内光政だが必ず帰省するたびにこの恩師には挨拶にいっていたと。

しかし、この富田先生は実は石川啄木を落第させた人物である面、授業をさぼったり
成績がよくないものには落第をさせたりしていた厳しい面もあったそうだが。
啄木はこの富田先生の追放運動をしているのだった。

また、米内光政は金田一京介と同窓生で2つ違い。
柔道でくんだとき、体格が勝っているのに敢えて投げを打たれたという優しさがあったと。
その性格が軍部対立の時、強硬派の陸軍を抑えられなかったのではと
先人のいろいろな人の繋がりが感じられた
今日の2時間の講座だった。






 
コメント
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