ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2022-55 初挑戦400mフリー、日本マスターズ水泳大会

2022年05月07日 | 日記
今日から一両日、2022日本マスターズ水泳短水路大会盛岡会場が開催。
これに参加するのはコロナのために中止になったりして実に3年ぶりである。
これは北海道、東北6県、をはじめ、関東、愛知、大阪、等20県から集まった東日本水泳大会である。
コロナ対策として水泳以外の時にはマスク着用が義務であった。
さて今回は初めての400mフリーに挑戦。
最後まで泳ぎきれるだろうか、途中で足がつらなければいいなとか一抹の不安があった。
しかし、練習では3000mで50mを24本泳いだり、50mを1分サイクルで4本3セット泳いだりしていた。
だから出来るのではないかと、自分を信じて初トライしてみたのだった。
しかし、直近の400m練習は3回と心もとない。ペース配分がわからないのだった。

400mはプログラム1番目。アップを終えて待機所へ
整列までマスク着用。名前を呼ばれてスタート台上へ。
マスクをここで外したのだが、今までにはマスクをして飛び込んでしまった方もいたそうだ。
笛がなって飛び込む。いつもならここから精一杯泳ぐのだが400mなので普段のような速さで。
回数だけは間違えないように数をかぞえながら淡々と泳いでいった。
50mを8回だ。最後の8回目の時にコース上で鐘がなったのが聞こえてきた。
外で聞くより、泳いでいると案外小さく聞こえるのだった。
ラストスパートだ。でも思ったよりスピードがでない。
ようやく、ゴール。
ついに完泳。プールサイドへ。息は意外と上がっていなかった。
タイムはどうにか7分台でゴールが出来た。
ベストタイムだった。結果は年齢区切りでは全体で6位だった。
何度も長距離を泳いでいる方から、「最後に頑張ろうとしても疲れて速く泳げないから
最初の方でタイムを上げて泳いだ方がよいよ。」とアドバイスをもらった。
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2022-54 すいかの定植

2022年05月06日 | 日記
すいかのシートはりを終えて1週間。
気温も暑くなり、地温も高まったので連休後半、ついにすいかの定植作業に入った。
今回は定植の後で幅が2m10センチの透明ビニールでのトンネルがけもある。

1m間隔にすいかの苗を植えていく。
1畝に13本。穴を掘って殺虫剤を入れ、穴にたっぷり水を入れてから苗を植えるのだ。
延々と続く作業。大玉が4畝。52本
残りの1畝には小玉すいかとメロン。
半袖でも暑くて休憩しながら進めていった。
どうにかお昼までに終わらせることができた。

昼は畑でお握り。次のトンネルがけがあるからゆっくり休むことができないのだ。
なぜなら風が強くなると作業は中断。風が吹くとシートが煽られ時間が倍以上かかってしまう。
幸い無風なのでチャンスなのだった。
シートをはって両はじをクワで土をかけて止めていく。1畝におよそ30分。

ちなみに大規模農家はこれらの作業は全て機械化だ。
こちらは手作業。2時間30分かかってやっと終了。

大仕事を終えた満足感に浸る間もなく次は夏野菜のための畝作り。
天候・気温・風力の条件が揃っていたのだ。
ひが暮れるまで頑張った日だった。
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2022-53 学校が消える

2022年05月05日 | 日記
田野畑の帰路。岩泉町に入った。
かつて勤務していた学校を訪問しようと寄り道をした。
懐かしい山々、うれいら山が迫る。
カーブを過ぎて田んぼ道に入れば懐かしい校舎があるはずだ。
しかし、それらしき建物がない、消えてしまったのだ。
道を間違えたのだろうか。何度もその辺りを走った。
しかし、見つからない。
場所は確かにこの地域だ、公民館もあった。
ここは6年前の台風10号の豪雨で家屋が一面1mの水が浸水した地域だった。
その6年前、お見舞いに訪れた時には確かにあったのだ。
近くで農作業をしていた方からお話を聞いた。

「あの学校も浸水したのでその後1年後ぐらいだったかな、取り壊しをしてしまいました」と。
意外な話だった。「その近くに石碑があるでしょう。そこが跡地ですよ。」と。
急いでその場所へ。確かに石碑が残っていた。
校庭らしき広場には一面タンポポが咲き誇っていた。
地域の拠り所であったあの校舎が取り壊されてしまったのか。・・
仕方がないのかもしれない。しかし当時の思い出も消えてしまった気がして無念な気がした。
そこから1km離れた橋を渡った本校も訪問。
やはりここも浸水し、校舎が消えて石碑のみ立っていた。
少人数ながら、頑張って盛り上がった地域運動会をした広々とした校庭は
ブルドーザーが入り埋め立ての最中だった。

変わり果てた学校が消えた地域に呆然としてしまった。

しかし、学校が消えても
学んだ子ども達が、今や地域の中心の支え手になって活躍しているのは何よりである。




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2022-52 三陸の全盛期の頃

2022年05月04日 | 日記
三陸、田野畑を旅してホテルの支配人とかつての「三陸・海の博覧会」を懐かしんだ。
これは地方博覧会で丁度30年前に開催されたイベントである。
宮古・山田・釜石を中心に夏場の3か月間で当時200万人が訪れた三陸博覧会であった。

この博覧会の前に
日本最長の第3セクター三陸鉄道が1984年に開通。
また、年金機構のリゾートホテルとしてグリーンピア田老も建設され田野畑ホテルの羅賀荘も同時期開館。
当時、この三陸、山田に勤務。人口も多く、三陸には勢いが感じられたものだった。

私自身も家族連れで訪問。楽しかった「あの夏の日の思い出」であった。

その約20年後に大震災が襲ってくることを誰が想像出来ただろう。
あの震災。ホテルも被災者の避難所になったりしながら数年後に開館。
今に至るのだった。
当時の苦労話をお聞きし、ホテルマンとして地元と歩む姿が垣間見えた。
復興の象徴は何といっても
八戸から仙台まで開通された高速三陸道路ではなかろうか。半分時間が短縮されたのだから。
そして沿岸と内陸を結ぶ横断道。難所が解消され安心して冬場も走れるのだ。

時間の流れを感じた旅でもあった。






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2022-51 連休初日、田野畑へ

2022年05月03日 | 日記
 連休はいつもなら畑作業の稼ぎ時なのですが初日、田野畑へ出かけて楽しむ。
車で2時間20分の工程。難所の早坂峠はトンネルが開通され快適な旅へ。
冬ともなれば、必ず1台はスリップして道から落ちていた箇所だった。
岩泉町はかつての思い入れのある赴任先です。帰り道立ち寄ろうと先ずは田野畑へ。
岩泉町は6年前の8月末、台風10号の豪雨で大変な被害にあった場所。
その爪痕はまだいくつか残っており河川工事が続いていた。
さてその岩泉町の途中から山道を通って田野畑へ。目指すホテル到着が6時半。
楽しみは夕食。海の幸、毛ガニ一匹、アワビ、刺身など、ご馳走。
部屋は海側で朝日が窓辺から見え絶好の風景。風呂も広くゆったりと。
のはずでしたが、生憎、翌朝は曇りで朝日は薄ら明るく日の出を拝見できず。
次の日は絶景の北山崎へ。さすがに記念切手になる風光明媚な場所だった。

そこで大宮からサイクリングで北日本を巡る独りの若い女性との出会う。
何でも学生の時にバイトで資金を貯めて8か月かかって北海道までいって戻ってくる計画とか。
丁度1か月でここへ到着したようだった。逞しい若者だ。
一日80キロ走行距離。岩手は山道が多く時速15キロから10キロぐらいのダウンペースになったとか。

その後、島越のクルーズ船発着場所へ。
大きさは19トン。北海道知床沖で遭難事故にあった船と同じ大きさだ。
結構大きいが万が一の救命筏は設置されていないそうだ。義務ではないそうだ。代わりに浮器が設置されていた。
今回の遭難事故にあった船にもこのオレンジの浮器が発見されたとあった。
浮器は一時的に水面に投げ出された時に捕まって浮かぶもので
この季節では水温は10度以下であり、低くて早く救助しないと助かる見込みが薄いようだ。

隣で漁船の手入れをしている漁師の方からお話を聞いた。
船底についている海藻を除去していた。それを取らないと燃費が悪いのだと。
軽油も値上がりして大変だとこぼしていた。その漁船は9トンとか。
震災で船を流され、ようやく1年後に手に入り漁を再開したと。
その時の苦労話をお聞きした。
そして福島の汚染水については近隣県全体の漁業組合で反対している。
と声高に話されていた。
報道ニュースでは取り上げていないことに不満をもっているようだった。

様々な話しが聞けた旅でもあった。















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